雑感



PuPuさんの サンカの人達は独自の音楽文化も持っていたのでしょうか?
の答えを書こうとしたら、長文になり掲示板に入りきれなかったのでページとしました。

「 蟻の街の奇跡」 松居桃棲著 より抜粋

「浮浪者」という言葉は、天智天皇の時代から、「戸籍」という言葉とともに、公の政治用語として使われはじめたもので、そのころは「うかれびと」と発音していた。その意味は、今のような「一定の住所も職業もなく働く意欲もない人生の落伍者」ではなく、貴族たちよりも、逞しい生活力をもち、堂々と広大な田地や山林を所有していた人々だった。そういう人々を、なぜ、時の政府が「浮浪者」の烙印を押して追放しようとしたか? そこが大事なところだ。そのころ、天智天皇と藤原鎌足を中心とする政府は、まず「戸籍」を作って自分たちの仲間だけ登録しておき、つぎに例の「班田収受の法」によって戸籍に登録していない、政敵や異民族や賤民たちが開拓した土地を「浮浪者が不法占拠している土地」と称してどんどん没収した。こうして、山に追いこまれたのが山窩となり、河原の荒地に追われたのが河原者、すなわち穢多になった。穢多は田畠を作ることができないから、瓦焼きや、皮革工業を専業とするようになり、その結果 、逆に莫大な経済力をもつようになった。その最大の実例が、浅草を中心とする江戸の穢多部落だった。穢多は一般 の寺にも神社にも詣ることを許されなかったから、彼等は、彼等だけの力で、彼等自身の寺や、神社を作った。それが浅草寺と「おとり様」である。この新興勢力を最初に利用したのが源の頼朝であり、最大に活用したのは徳川家康だ。家康は浅草財閥とタイアップするために江戸をその本拠とし、浅草財閥の力をもって、大阪財閥をバックとする豊臣家を打倒した。だから大阪の陣が終ると、家康の旗本たちよりも威張ったのは穢多部落の代表、花川戸の助六であり、番随院の長兵衞 だった。同時に、家康から最大の信頼を受けたのは、穢多財閥を紹介した、無名の穢多僧天海だった。家康は天海の功績にむくいるために、東叡山寛永時を作って浅草寺をその傘下に入れた。

「紀州 木の国・根の国物語」 中上健次著 より抜粋

昭和28年の水害で被害を受けた被差別部落の人らが、田圃ばかりのそこに建てられた市営住宅に入る。そして、一千戸の家を流したという水害の為に東北から出稼ぎに来た秋田、青森、石川県あたりの人らが「同和地区の人らと結婚してみたり、或いは同和地区は住み易い所だと安住してみて落ち着いた。どこでも同じ傾向はあると思うが、××(地名)も排他的ではありませんよ、部落は」。そう言って××氏は、独りでうんうんとうなづく。「沖縄県の人だろうが、青森県の人であろうが、あるいは朝鮮の方であろうが、かならず夕飯の米がなかったら、一升の米を分けおうてでも食べる、というほどの親切味はみな持っておりますからね。貧乏ではあるが、貧乏を分けおうて住む地域には持ってこいやと。水害に出稼ぎに来た人らも、そうやんで定着しますがな。ところが、いつしか、それがね、いまは部落になっている」。声をひそめる。

随分前に、関西の部落の歴史を研究している人に聞いた話ですが、部落のルーツは古く、大和朝廷に服従しなかった先住民、中でも南九州や東北から連れてこられた人達が中心となり、その後、白村江の戦いにより捕虜にされた新羅人や、すでに渡来していた新羅人が、やはり渡来し勢力の強かった百済人(背後に中華思想の唐人がいた)に、本国での恨みをはらすべく新たに賤民として加えられ、その後も軍事的政治的敗者が加えられ形作られたのではないかとのことでした。

またまた随分前のことですが、保守的な地域に住む歴史の好きな人と話しをした時のことです。僕はサンカが日本の歴史や文化に与えた影響のことなどを話したら、「そんな家も持たない乞食同様の集団に何ができるか」と、サンカだけでなく被差別 部落や在日に対する差別心をありありと感じさせる言い方に、僕はカチンときてしまい、(その人は普段から偏見の強い人であった)昔のことは証拠があるわけでないので、そりゃ分からんわい。しかし、戦後の話しならはっきりすることも多かろうと、日本の被差別 者と在日のハーフからもっとも国民的スターと呼ばれる人が出ていることを知っていたので、国民的スター、文化人から政財界、ヤクザに至まで、被差別 から出たとされている人達の名前を言ってやったことがありました。

あれ、何を言いたかったのかな・・・?
ですからサンカ独自の言葉(トウシロ等の逆さ言葉は芸能界等で使われている)はあっても音楽はないのです。この国の芸能や文化の多くはサンカを始めとした人達から生まれているのですから、独自というよりこの国の音楽そのものだと思います。能や歌舞伎は明らかにサンカから生まれたものだと認識しています。で結局何が言いたかったのかと言うと、その排他的でない精神や弱者を包容してしまう精神、また日本独自の文化を生みだした精神はどこから来たのかというと縄文からのものではないかと思うのです。勿論、それに様々な文化や血が融合していることも重要な点だと思います。なんだか無茶苦茶遠回しな答えでした。


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