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2001年08月08日(水)00時03分までのKumanolifeGuestbookへの書き込みです。


利田 - 2001/08/07(火) 17:28<

ビデオ見ました

ナレーションによると、
「中元さんは東京で画商の仕事をしていて、年収は1000万円を越えていた」
初耳でビックリ!
その後ヤゾー曰く「ベンツに乗ったり、高価な指輪つけたり〜」

ヘー、ヤゾーってバブリーな人だったんだ。

もんむー - 2001/08/07(火) 17:21<

風の森

ヤゾーさん、みなさんこんにちわ。

奈良県御所市、国道24号線和歌山県との県境付近に「風の森」という場所があ
り、そこに「志那都彦神社」があるそうです。

私はこれを五木氏の著作で知ったのですが、五木氏は「志那都」をサンカの語
彙「シナド」との関連で語っていました。

五木氏によるとこの神社は明治になってからこの地でおきた風害がきっかけと
なって創建されたということです。

「風の森」という地名といい、ちょっと気になるのですが、ヤゾーさんは御存
知でしょうか。

でわでわ

ヤゾ− - 2001/08/07(火) 15:59<

白山信仰と別所

時折、別所とは何かとの問い合わせや質問を受けることがあります。
そこで、『史疑 徳川家康事蹟』の村岡素一郎の孫であり、
八切止夫氏の友人でもあった直木賞作家の榛葉英治氏の『異説 徳川家康』の中から
別所と白山についての箇所を一部抜粋してみました。
少し可笑しいかなと思うところもありますが、分かりやすく説明している気がします。

昔から「産所」もしくは「別所」といわれる地域に住む民は、古い時代に、農耕を主として仏教を信じた文化的な種族のために、
山中に追いやられた先住の種族で、狩猟や山仕事を主にして、白山を信仰する神徒系である。
田畑を耕す民に使われ、差別された人たちで、住む土地は「別所」として区別された。
竹細工の簓などを作って売ったので、「ささら者」とも呼ばれた。
源応尼とお大は、このささら者の一族であった。

「白山神社とはな。白山ヒメ命、菊理媛を祭神として祀る神社だよ。それだけなら、ふつうの神社だが、それとは違う。
隠された神社で、信仰するのは、別所とか散所に住んで差別される白山信徒さよ。おみゃあのお婆さまも、この系統だに・・・」
農耕をしない縄文文化の先住種族は、田畑を耕す弥生文の種族に抑圧されて、山に追いやられた。
彼らの住むところは、別所、散所などといわれて差別されるようになった。
日本の原住民は神話以前の「国津神」すなわち白山を信仰し、農耕して平地に住む文化族は「天津神」を信仰し、
大化の改新以後は伝来した仏教が勢力を占めるようになった・・・

ついでに多田(タタラ)源氏

多田という地名はタタラの縮小語からきているとの地名学者の話しがありますが、
多田の庄の近くの多田鉱山は最盛期には二千の坑があり、多田源氏の勃興期と重なっているといいます。
金、銀、銅で富みを貯え、鉄でもって武力を整える為に、
タタラ(産鉄民)を支配することは何よりも大切であったのかも知れません。
また産鉄民に、原住民系と渡来系がいたことが、歴史を複雑で分かりにくいものにしている気がします。

没義道法主 - 2001/08/07(火) 15:54<

ビンクのトカゲ様、ありがとうございます。

スゴい板だなここは。一人もやもや考えていたことがどんどん氷解していく。
でも「古文書捨てる」ってのはもったいないですね。土蔵や蔵のある家はうらやましい。
うちは物置すらない……。

気になりだすといろいろ気になるもんです。
終戦内閣の鈴木貫太郎は堺市伏尾の生まれですが、「ふせお」と読みます。
ただ岡のふもと、そんなに奥じゃない。しかし少し南下すると上別所、下別所があります。
産廃不法投棄なんかで問題になるほど山奥です。

高知市にも伏尾谷があり、相当山ん中ですね。長崎のは海沿いですが、すぐ東が「伊福」です。
岡山久米郡の高原に野伏尾があります。赤松氏が軍勢を隠したところだから「野伏」と言うとか説明されてます。
しかしその一帯の大地名が「別所」ですし。

西宮に「伏野」があります。「藤野」の変化かも知れませんが、すぐよこには「門戸厄神」こと正式名「東光寺」があります。
すこしはなれた南には白山ヒメ神社。南西にいくと「荒戎」なんて町があります。なかなか意味深です。

ぽん - 2001/08/07(火) 13:14<

今日は神宮の花火大会ですねえ

ヤゾーさん、ありがとうございます。
七夕の短冊に「夏バテで痩せます」ようになんて書いたから、天罰かも。
きょうかいさん。
「東京地名考」(朝日文庫)から写しただけですよ。孫引きです。すみません。
お友達の居酒屋の話、いいですねえ。タヌキに化かされたような感じ。

怖い話と言えば、ささやななえのまんがは、こわいです。
その中に「たたらの辻に」(たしか、この題名。家にあるはずで探したんですけど、見つからない。文庫になってます)というのもあります。
結界、たたら場、でいだらぼっちとか言う言葉がでてきます。作者はササや、だし。ほんのちょっぴり、かすっています。









ピンクのトカゲ - 2001/08/07(火) 10:20<

参考になれば、

没義道法主さん
高校時代からのツレで、その方面じゃかなり血筋いいのいるんですよ。
ヤツも20年ぐらい前に屋敷壊したときに、土蔵にあった十手だけ残して、古文書、一緒に解体しちゃって、今になって後悔してるんですけど
やっぱり頼朝直系ってことは、いいますよ。ただ、源氏の氏神は白山だって言ってますけど
確かに白旗の源氏がテメェの氏神真っ赤に塗るなんておかしいですよね。
それにあそこで暗殺されて絶えるんですから頼朝直系は やっぱあれは北条の氏神ですよ。
新羅滅亡と東国武士団としての源氏の発生。白山と白頭山。
八切止夫なら、百済系桓武と新羅系の東国武士団なんて図式、立証無しに、いきなり持ってきそうだけど、これ細かく検討すれば、立証できるんじゃないかと思いますよ。
昨日もヤツラと呑んでいましたけど、この掲示板の俘囚などの話すると、盛り上がってますよ。

Dongly - 2001/08/07(火) 09:40<

竿と醤油

 バリ師さん。
 今のサンカ系政治屋の獲物のつかみ方から見れば、鰻や泥鰌の取り方は「手掴み」
「鷲づかみ」だったことは、まず間違いありません。
 有名な竿師(サンカ)の作った竿で川釣りをしたら「魚から竿によって来る」
ように釣れてビックリしたとか。その竿師は「社長なら、この竿を使える」と。
釣師の腕も物を言うのでしょう。土木建築業の社長も死にましたが、海釣や川釣り
には全く興味のない私ですが、岡釣り用の素晴らしい竿を注文したかった!!
おミヨさん。
 という訳で明治期に醤油製造組合は醸造組合に入れて貰えませんでした。
著名な社会運動家(クリスチャン)の方(名前を忘れました)が、両者を説得
して醤油業が醸造業の仲間入りすることに尽力した、と聞いています。
近年は製造法?が異なるためでしょうか、醤油が大変まずい理由では。
また当時は酒造業などより醤油業がはるかに儲かった時代です。

没義道法主 - 2001/08/07(火) 09:05<

Dongly さんありがとうございます

そうですか。あちこちに伏尾、または類する地名があるかも知れませんね。
最近はIT技術がすすんで検索しやすくなりましたので、調べてみます。

それと気になっていたのは、やはり伏尾(池田)と多田(川西)の関係です。
ヤの弾左衛門は自らの正当性(?)を主張するとき、源頼朝をひきあいに出していたそうですが、
まったく根拠のないことなんでしょうか。
弾左衛門の上祖は摂州池田の出自との伝承ありますね。
ここで想像を逞しくして、頼朝の先祖たる多田源氏に仕え、俘囚をまとめて製鉄関連に従事していたのが
弾家のはじまり。以来源氏となにかと関係が出来て………。これは「野史」ならぬ「アヤ史」(笑)ですな。

ピンクのトカゲ - 2001/08/07(火) 09:03<

寝た子が起こされそうです。

釣から遠ざかってたんですけど、寝た子が起こされそうです。
親戚に好きな人がいたんですよ。自分で竹薮持ってて、中通しの振出なんてとんでもないもの作っている人が
あれなんて言いましたっけ?竹刳り抜くヤツ... 中通しの振出なんか作ってるからピアノ線焼き入れて沢山持ってましたよ。
私も何本か作ったことありますよ。
和竿って、紀州の系統と、江戸の東作でしたっけ?の系統に分かれるんでしたよね?
江戸と紀州で節の朱入れが違うんですよね?どっちが先か忘れたけど、先行するほうが、矢の朱入れと一緒なんですよね?
一応、日置流雪荷派の目録持ってまして、矢師の人とか知ってましたけど、「タメ」とかは、矢の方がはるかにシビアで技術的には、竿師より矢師の方がはるかに上だと思いますよ。実際、矢師の人から教わったことあるんですが...
それと、祭礼用の笛とか作ったことありますが、中の処理は、笛が一番手間食いますね。
東海道線の豊橋近くのとある駅の付近にありますよ。釣道具扱ってるんだけど、びくとか作ってるとこ
みなさん欲しがるようなもの沢山ありますよ。確か特注やってくれると思いました。ただし、主人健在ならですけど...
サクラさん
竹細工のストラップなんて、そこで頼めば、できるかも
ところで、ありました?ピンクのトカゲのストラップ

バリ師 - 2001/08/07(火) 07:56<

こりゃあかん、サンカワールドに迷いこんでもたがな

■「又鬼と山窩」の播州のサンカから聞いた話のところに「・・・鰻や鯰はお手のものだすしな」という記述があるんですが、さあてこの鰻や鯰の具体的な獲りかたがわからへん。

■「津山魚篭」という異様に大きなハエジャコ用の素晴らしい竹魚篭があるのですが、これも元々はサンカがらみの手仕事なんだっしゃろか?

■竹細工に長けとったサンカの人たちは、農具以外に竹竿もこさえとったと思うんやけど、これも記述がおまへん。竿師は矢師につながる座職なのでしょうか?

おミヨ - 2001/08/07(火) 06:20<

あさえむ丸

Donglyさん
生薬としていろいろ利用されていたのですね。調味料ですか?はぁー(ため息)

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/07(火) 00:29<

伏尾と初瀬

 没義道法主さん。
 初めまして。矢切止夫さん死亡の年に初めて矢切サンカ本を読んで「真実の日本史」
がありうると思い、50代で入門でした。矢切本の背景に阿部弘蔵・菊池山哉の存在
があり、今も勉強中です。ところで伏尾は、広島の呉線沿い安芸津(旧「豊田」郡「三
津」町で新羅の匂い)の蚊無川の支流を遡った地図上では行止りにも、あります。標高
372m野田山の麓です。蚊無・蚊之氏は広島では「ねんごー株」の金師(たたら者)の
地であると郷土史家は教えます。タタラ者→多田者となるでしょう。ねんごー株は関西
の「根来株」と同じか否か議論されています(既報)。蚊無川は同名の山から発し、上流
に印内地名や夫婦滝があります。夫婦は比丘尼+修験の意味か、ミョウブで修験関連か分
りません。野山を北に越えると加茂台地に入り、別所地名を含む仁賀には八王子神社あり
三津町西には風早・早田原地名があります。四国では鳴戸(数箇所あり)が俘囚の上陸地
点と推測中ですが、三津ではこの辺りかもしれません。三津町は古くは港ですが、未だ
に町史も出ず、文献は地図だけが頼りです。府川・布川・深川・不自由・府中も「俘囚」
の別表記の疑いありです。文献だけ疑いは晴れません。仮説を立て現地調査です。
 とんちんかんこぞうさん。
面白く拝見しています。出雲・備中・美作・播磨・丹波辺りの山民(修験・サンカ・忍
びなどの)絡みはどうなっていますか?熊野修験の統率力は失われてたのでしょうか。
これら山民の連合を崩した力は何なのでしょうか?。また、修験=サンカ=忍び集団は
「自己の高邁な理想」を何故持たなかったのですか?。続を期待しています。
 おミヨさん。
 たたら場が焼場をかね、鍛冶屋が温亡を兼ねる話は江戸期にもありました。骨の成分が
溶け出し「よい品質の製品」ができるというのが理由だったかと思います。また人骨灰は
染物色保持に効果ありは、もう出てますね。あと薬・調味料に使用した話も聞きました
ので、鍛冶屋・藍染屋・薬屋などの「分捕り合い」だったのでは?
人は死んでからも奪い合いだったのですね。早く生き地獄から、あの世に行きたいので、
佛教が人々を捕らえたのでしょうか。今は生命保険があっても・・・人体部品ビジネス
でないと効果なしかも知れません。永=長=中 と仮定するのが野史地名学的です。

ヤゾ− <http://www.kumanolife.com/Topics/8_6.html> - 2001/08/07(火) 00:05<

隠れ里探訪

みなさん、こんばんわ。

昨日、古座川の上流へ、なにか面白い発見がないか行ってきました。
最上流部にある村は、まるで隠れ里のような雰囲気のところでした。
天然記念物の一枚岩の写真をページにしています。

ぽんさん、こんばんわ。
夏風邪ですか?お大事にして下さい。
臆することなく、なんでも書き込みして下さいね。

>1) 播磨新宮より西は屋根瓦に”えびす顔”と”打ち出の小槌”多い

さんかうぶさん
今日、見てきた村々の家や廃屋の屋根瓦には”水”と書いたものが目につきました。
随分前に渓流釣りで道を間違えて廃村になったところへ迷い込んだことがありましたが、
荒れ果てて朽ちかけた粗末な家ばかりの中で、一件だけ立派で、しかも手入れが行き届いた家がありました。
その家の屋根瓦や倉にも”水”という紋があったのを覚えています。
単に火事よけの魔よけみたいな気もするのですが?
その“水”の紋の入った廃屋の屋根瓦の写真を画像掲示板にアップしています。

きょうかいさん
信貴山縁起について、『遊民の系譜』という本の中で、
鉢が飛ぶということについて面白いことが書かれていた覚えがあります。

没義道法主さん
遠慮することなく独自の史観を語って下さい。

min-min - 2001/08/07(火) 00:04<

ごめんなさい>関西の皆様

て、今頃あやまっても遅いのですが・・・ナハハ。

あかねさん、始めまして(^-^)/
>>最も賑やかなのは大阪南部かもしれないけど、少なくとも、京都・丹波・但馬は
>>外したほうがいいかも、です。特に但馬は言葉がスローテンポです。

例えが古くって恐縮なんですが、『河内のおっさんの歌』を聞いて育った世代ですんで
やかましい!といえばやはり大阪「ディープ・サウス」ですねぇ。(笑)
関西弁ということに限定すれば、四国の徳島県あたりでもモロ、関西弁なんですね。
行ってから初めて知りました。確かに関西弁といっても種々ありますね。

おミヨさん、最近多少は涼しくなりましたけどお元気ですか?
>>朝出勤の途中お葬式に出会うと、その日は縁起が悪いからと会社を休んでしまうそうですが

ええ〜っと、台湾に限っていうとそんなことはなかったです。
ところで「産鉄民」のこと、とても興味深く読んでます。

やぞーさん、
ちょっとマンガチックな面もあるけど、素直に受けとめるとロマンティックでも
ありますね!>[虹の戦士]の話。

min-min@横浜

おミヨ - 2001/08/06(月) 21:38<

産鉄民と穏亡

タタラ場では死人を歓迎したという。近くに葬いがあると、棺をタタラ場に担ぎ込んでもらったり、
棺の板を燃したりすると、タタラの吹きだしがよくなり、死体の処理もできたという。
長谷寺のある大和の初瀬が隠り口(こもりく)といわれるのは、初が「果つ」で死者を葬る隠れ里の
入り口。京都の鳥野辺、仇野、八瀬。鎌倉の長谷寺などは山間いか、山の根につくられている。
初瀬、八瀬、八聖の谷の奥は之多べーシタビー地下黄泉の国ー葬送地でこれも産鉄民の仕事であったと。
死を穢れとするのは、仏教が盛んになってからという。

min-minさん
台湾のお葬式すごいですね。どえらく派手ですねー。
ところで中国(?)でしたか朝出勤の途中お葬式に出会うと、その日は縁起が悪いからと会社を休んでしまうそうですが、日本はお葬式に出会うと縁起がいいとききましたが、どうなんでしょうか。

友達に大阪人いますが、それはーうるさいですよ。グループでバス旅行の時でも喋りどうし、挙句の果て
説明しているバスガイドさんに「あのガイドうるさいわねー」って、どっちが五月蝿いかわかってません。

きゃ利田ヤゾウだ!
つげ義春さんは、藁葺きの風景も好きなんだけど、それだけではなく、世の中から見捨てられたような
貧しげで粗末で惨めな風景に惹かれるつげさんに、わたしも惹かれるんです。
「貧困旅行記」にあるような風景のところ絶対いいですよね。猫町紀行ひかれます。

あかねさん
雷さんまで良くご存知ですね。楽しい書き込みありがとうござりました。

ナ・二 - 2001/08/06(月) 21:35<

「俘囚」

とんちんかん小僧さま。

>東北出身ということは、奥州藤原氏(=俘囚の上頭)が思い浮かびますが、
>俘囚については詳しいのですか?

「俘囚」は虜、捕虜という意味がある蔑視語で大和王権側の政治概念です。
もうひとつ「夷俘」というのもありますが、ちょっとニュアンスが異なります。
「俘囚」の方がどっちかというと大和寄りのエミシ(主体的に大和よりとは限らないと思いますが)で、
位階制度も二つ異なるものが適用されていたようです。(あ、大宝律令とその前では制度が異なりますね。
ま、ここでは置いといて。。)
「俘囚」「夷俘」も時代を超えて一貫した定義ではなかったようで、時代を下るに連れ意味合いもごたまぜになってきます。「賊」という表現もでてきますか。

それから、私はエミシは単一ではないと思っています(大和王権の政治的概念としての「蝦夷」もそう思います。)実際、エミシも部族社会であったでしょうし、和系化して分化してくると思いますし、よそ者が支配を進めるのに、在地勢力のある者と姻戚関係を持ち、またはでっち上げで「夷の系譜」を強調した、ということもあるのではないかと思います。

今までのエミシ研究でアテルィやイカコなどは別として、安倍氏・清原氏や奥州藤原氏などの時代は(安藤氏あたりもそうでしょうが)支配層のことばかり注目されて、庶民または被支配者層がどういう状況だったか。またはその関係はどのようなものだったのか、というところに迫る研究というのを私は見たことがありません。(あるのでしたらどなたかご教示を)。
栄華を讃えるのはいいかもしれませんが、栄華の裏には庶民の犠牲があったものと考えています。
近現代のような人権的賃金労働制度などの社会制度があったなら話は別ですが。

あとは大和王権とのそれら領主権力との政治的力関係というのも手がかりになるのかもしれませんね。

とんちんかん小僧 - 2001/08/06(月) 21:09<

陰陽忍軍歌 (8)

きょうかいさん
レスありがとうございます。紹介して下さった本探して読んでみます。

ナ・ニさん
東北出身ということは、奥州藤原氏(=俘囚の上頭)が思い浮かびますが、
俘囚については詳しいのですか?


 その夜、高倉山城の本陣にいる秀吉の招きで、木陰弥右衛門は仁位山に入った黒田の
陣地から引き返して来た。
「上月城を早々に始末したい」
 秀吉は弥右衛門の顔を見るなり、せっかちに言った。弥右衛門は角張った分厚い顔を
まともに秀吉に向け、「あわててもあかんときはあかんわな」と横柄に答えた。
「何ぞ、よい手はあるか」
 弥右衛門の横柄さに馴れている秀吉は一向に意に介せず、「何ぞ、手を打て」と促した。
「わしらはの」
 弥右衛門は秀吉の物言いなど無視して、別のことを言った。
「わしら木陰はの、おまいさまにえらく出世してもらうのが願いじゃて。だ、もんだで、
そんためなら、たいがいの無理は承知で押しまくるがの」
 そこで言葉を切り、「上月城は、談合でかたがつこうかもしれん」と言った。 −つづく

とんちんかん小僧 - 2001/08/06(月) 20:31<

陰陽忍軍歌 (7)

 尼子氏のために働く鉢屋者の頭目を鉢屋七平(おそらく、以前紹介した鉢屋弥三郎の変名
でしょう)といった。鉢屋の祖は平将門の叛乱に味方して京都を追われ、山陰出雲の地に潜
んでいた。
 その鉢屋の手を借りて、尼子の本家京極氏のものであった出雲の富田城を奇襲して奪い取
った尼子経久は、たちまちのうちに近辺の国々を掠め取り,侵略して戦国の大大名にのし上
がった。
 もちろん、その陰には鉢屋一族の働きがあった。鉢屋は、いわば尼子氏にとって一大功労
者であり、最大の恩人でもあるわけだが、尼子家における鉢屋の身分は、相変わらず下賤の
「はっちゃもの」でしかなかった。
 尼子が一敗地にまみれて流浪の集団となっても、鉢屋は尼子のために働いている――。
 律儀で愚鈍な鉢屋衆――だが、徳利老人はそれを軽蔑して笑う気にはなれなかった。鉢屋
の行きざまが、忍びの者のもつ宿命のように思えたし、この徳岡一族の陰,陽二面の生き方
も所詮は鉢屋衆と同じ運命をたどるであろうことが推測できた。
 忍びの者は、どこまで行っても卑しい寄生木(やどりぎ)にすぎない。
 徳利老人は西播磨を貫通する千種(ちぐさ)川の本流に、熊見川[佐用川]が注ぎ込む合流
点に出来た集落久崎(くざき)の牛方宿に泊まって、猫又という若い忍びの報告を待っていた。
 久崎は赤穂街道への出口で、千種川を渡って上月城へ入る三つの船渡し場の一番下の渡し
場にあった。そこは渡船の溜り場として船小屋、問屋、倉庫、鍛冶屋、牛方宿、旅籠屋(はた
ご)、古手屋、陸曳屋〔(おかびきや)船を陸から綱で曳いて川上へ上がって行く人足問屋〕
などが街村風にかたまり、その一番上手に上月城船番所が建っていた。賑やかな町である。
 徳利老人の宿泊する牛方宿の主常吉は、徳利老人が二、三年前に蒔いておいた忍者で、こ
れを仲間うちでは里隠れと呼んでいるが、徳利老人の考えはもっと深いところにあった。
 猫又は夜明け方に帰って来た。その報告によると、上月城の友軍高倉山城の城主赤松義則が、
秀吉が派遣した木陰弥右衛門の説得によって、上月城より秀吉側へ寝返ってしまったこと。
 また、佐用の北、因幡街道の利神山(りしんやま)の南麓口長谷(くちながたに)の利神城
主別所定道も同じく弥右衛門の口説きに乗って上月城を裏切り、秀吉の味方になることを決意
したといった、おおむね老人が予測した内容であった。
 上月城側は別所と高倉山城の裏切りで混乱する、〈要は混乱すればよい〉老人は乾いた笑い
方で、猫又を呼び、この話をそっくり滝山にいる徳久に報せるように命じてから、常吉に「も
うぼちぼち木陰の方へ行ってよいぞ」と言った。
 常吉は「へ」と一礼し、立ち上がってもう一度会釈してから、中二階のその狭い部屋の段梯子
を下りていった。
 
 [この後につづく史実は重要ではないので一部省かせてもらいます]

 秀吉本隊は、高倉山城の占領と同時に本陣の構築をすすめ、さらに、上月城正面の仁位山に
戦闘指揮所をつくるべく、主力部隊を強引に送り込んだ。 −つづく。

没義道法主 - 2001/08/06(月) 20:09<

新参者の勝手な言い分

私の「かぶれ」遍歴。オタク親父の秘史。
高校時代→八切止夫 今は二割以下しか信じていない。阿部・菊池を「復興」したのは見事。
大学時代→古田武彦 今は三割以下しか信じていない。神話研究は見事と思うけど東日流はあまりです。
独身時代→三角寛等 今は二割以下しか信じていない。今年にはいって「化けの皮」が………。
三十代→津田六割。菊池六割。埴原八割。安本七割。そんなところです。
独自の史観を作ろうという無謀かつ傲慢な「夢」。時折書き込むことをお許しを。

熊野はなつかしいです。十年ほど前、中辺路の村おこしを提案しかけたことがあります。
あまり開発、観光化しないほうがいいなどと言うのは、都市民の傲慢でしょうか。

ナ・ニ - 2001/08/06(月) 19:52<

釣り

あかねさん。

久美浜の兵主神社のところにずばり「隼人」と地名がありましたね。
ちなみにエミシが殲滅させられたところは浦明あたりではなかったかな?

ヤナギムシさん。

>ナ・ニさん・・あきまへんわ おませんでした・・
>isiiにロッジにもいったんやけど・・残念おませんでした

ン年前のICIスポーツ盛岡店で見かけました〜。
阿仁の打当(うっとう)や沢内村(ここは旅マタギが宿のために訪れることによってマタギ化した
里マタギと呼ばれているらしい。)あたりで譲ってくれないのかな?

バリ師さま。

>「終戦後、市川で毛鉤を振るサンカ」という一つの釣りの風景を追い求めております。その人は川で鮎や鰻を捕ってきては、
>町内を売り歩いていたとか。毛鉤も含めて魚釣りの仕掛けは、けっして他人に見せなかったと師匠から聞いております。

サンカに於ける釣り文化(漁労文化と広めに見てもいいかも。)というのには考えたことがありませんでした。釣りひとつにおいても、多様性(対象魚の違いももちろんのこと、地域や種族による差異)というのが、
日本国内においてもあるかも知れない。

とんちんかん小僧さん。
>『別所』の事でいつも勉強させてもらってます。これからもまた『別所』の事に
ついてご教授願います。
>ありがとうございました

実は「別所」については詳しくありません。やはり実際生きていらっしゃる方のお話を聞くべきでしょう。
東北にもエミシの末裔はいっぱいいるようですが、別所の方とは社会的状況・歴史的過程・意識に差異があるようです。もっとも、差異があって当然なのですが。東北でもアイデンティティ・地域の差異があります。

私は東北出身なので、東北における(ホントは自分の生まれ育ったあたりの地域のことしか言えんだおるなぁ。)エミシとその末裔の方に重きをおいて語ろうかと思っています。

きょうかい - 2001/08/06(月) 19:20<

渋谷と鉢

ぽんさん
>金王八幡神社の社伝による
 社伝は、見たことありませんが、記述が、なんか変ですね。
 それと、目黒区史はは未見です。今度借りようかと思ってました。
 いろいろ、資料お持ちなんですね。
 槍が崎の高台から官吏のごとく坂下の別所を見下ろしました。そこには
 まさに今、中目黒駅へ入らんとする日比谷線がいるではありませんか。
 そうなんです。あの忌まわしい事件のとこが、別所なのです。
 それと、ビクター-スタジオ前の千寿院下のガードの話・・・
 知り合いが、かつてガードの下で居酒屋を見つけました。
 「こんな所にできたのか」と後日そこを通ると何にもない!!
 考えたら当たり前で、ガードの歩道にお店ができるわけありません。
 このあたりは、22年前から飲み歩いてたとこなので次の次くらいの
 順で調べようと思っています。
ヤゾーさんとんちんかん小僧さん
 渋谷の鉢山の由来調べました。
 「法道仙の鉢、この所に飛び来るという」と(砂子)に記述があるそうです。
 これだけだと意味がわかりにくいのですが、「信貴山縁起」に命運という聖がでてきて
 やはり鉢を飛ばして山から村や貴族に富をもたらす云々という物語があるそうです。
 「神々の精神史」小松和彦・「経済の誕生」小松和彦、栗本慎一郎より
 信貴山は奈良県生駒郡なのですが、同じような説話がなぜ、東国にもあるのでしょうか?
 どこから調べりゃいいのか、誰か助けてください。
 偶然なんですが、9/14から10/24まで赤阪サントリー美術館で信貴山縁起展があります。
   http://www.suntory.co.jp/sma/japanese/exhibition/shigi-san/
 昨日は、渋谷で盗賊道元の棲んだ洞窟をたくさん見つけました。(ただし心眼)
 百件店付近で私が洞窟さがしをしてる脇で若者たちが、洞窟探しに昼間から熱心でした・・

ピンクのトカゲ - 2001/08/06(月) 18:38<

ポンサ

メンメシノギのバリ師さん
サンカ関係の資料に出ているように三河地方では、ポン、ポンス、ポンスケ等と呼んでいます。
巴川流域(西三河)については、わかりませんが、豊川流域では、釣自体をポンツと呼ぶ場合があります。
思うに、サンカあるいは、イツキサンカ等の魚釣の妙技を目にした釣人が、尊敬の念を込めて、ポンサといったのが、拡大的に使用されるに至ったのでは...
「何々さん」っていうの『何々さ」って、よく使いますから
はなしサンカから逸れますが、浜名湖の今切あたりで確かテンカラ竿にガイドつけて、メバル狙う釣法ってありましたよね?
最近、遠ざかってるので、記憶が曖昧ですが

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/06(月) 15:35<

サンカ質問箱:ポンサ

愛知県足助町で和竿を作る竿師の方の文章に「ポンサ」というのが出てきますが、このポンサというのはサンカのことなのでしょうか?以下引用。

1.この巴川流域には、昔から「ポンサ」と呼ばれる釣り師たちがいる。本来は魚を獲って職にしていた人たちを呼んだものだが、現在では釣りの名人上手を指して呼ぶ名になっていて、「あいつはポンサだで、よう釣るワ・・・」といった具合いに使われる。

2.往年のポンサたちの釣り道具は、一本の竹を切って枝をはらった延竿に、糸と鉤をつけた簡素なもので、鉤はといえば、木綿鉤をローソクの火であぶり、ペンチで曲げて作った「アゴ」も「耳」もないものである。もちろん、魚を入れる竹ビクも、自分で竹を割って「山菜カゴ」のような形に編んで使っていた。すべての道具が自己流の特別製であった。

以上よろしくお願いいたします。「メンメシノギ」のバリ師より

利田 - 2001/08/06(月) 15:18<

隠れ里

「隠れ里」って在るのだろうか?
最寄の駅やバス停から歩いたら2〜3時間くらいかかって、
変な宗教っぽい風俗があって、
そういう所に行ってみたい。
つげ義春の「犬目宿」みたいな所





ピンクのトカゲ - 2001/08/06(月) 07:42<

鍛治師

あかねさん
はじめまして
秀吉の母が美濃の鍛冶・関兼貞の娘っていう説があったと思います。
また、小和田哲男さんの著作だと思いましたが、近江浅井郡草野郷の鍛冶屋・源兵衛に弟子入りした伝承があるって書いてあったと思います。
私より2つ下で、お祭り一緒にやってたのに『かじやの哲っちゃん』略して「カジテツ」家事手伝いじゃありませんよ。まぁ家業のかじや手伝ってるんだから家事手伝いでもいいか
野鍛冶について技術的な質問があれば聞いときます。

さんかうぶ - 2001/08/06(月) 03:01<

作州など;(追加ひとつ)

7) 小×首相に良く似た青年がたくさん居た(今の流行かあ?)
以上、御笑納下さい。

さんかうぶ - 2001/08/06(月) 02:49<

作州など

今話題の地域を通過しながら津山でセブリしてきました。(簡潔にしておきます)
赤松氏の地域から上月、佐用、作東、美作、津山までJR姫新線に乗ってです。
1) 播磨新宮より西は屋根瓦に”えびす顔”と”打ち出の小槌”多い
2) 江美はEMISHIの変化したものか?
3) 京阪神名古屋地域の渡来系顔から原住民系顔にグラデーションする。
4) 河童の祭り行列の中、青森ネブタ祭りと同様の行燈を担いでいたのは、ナント
忍者装束の青年だった(驚いた、と同時に感激して涙が出た)
5) 関西あたりの夜店と少々違い、焼き肉、焼き鳥、バーベキュの露店多し、
とても美味そうです、油煙モウモウ、月明かりに独特の雰囲気。
6) 気になる名字が多かった(勉強不足で区別不能)
以上、ここの板に触る事例少々。

ぽん - 2001/08/06(月) 00:55<

長いけどいいのかなあ。

こんばんは。ぽんです。みなさん、夏ばてしてませんか。ぽんは、金曜日にダウンしてました。
朝起きて体がだるいなあと思ったら、あれよあれよと言う間に熱が平熱より3度程上がり、
次の日の朝には平熱になっていました。汗をかいたからか、体重が1キロ減っていました。
なんだか不思議な風邪です。お気をつけください。
やぞーさん、いつもきまぐれにきて、すみません。皆さんの書き込みを理解するのが精一杯で、しかも、うろ覚えの
横道の話しかできないのですが、なんかいつも黙っているのもさみしいんで、つい書いてしまいます。
Donglyさん。
大木戸さんていらっしゃるんですねえ。ご当家の由来もわかってらっしゃるようで、いいですね。
役職名でもあったんですね。江戸城から見て方角が悪い(鬼門であるとか)ところに大木戸があったと聞きました。
木戸の外は部落でしょうから、番太もいたんですね。兵法上も必要そうだから、責任もおもそうですね。
きょうかいさん。
霞ヶ丘団地のトンネルは上が墓地なんですよね。だから、出るらしいと・・・。
それから、先に紹介した朝日新聞の本に寄ると、渋谷氏は後三年の後、源義家の部下、河崎重家が京都の御所に
入った賊を捕らえた。その賊の名が渋谷権介盛国。その時に堀河の院より渋谷の姓を賜り、渋谷土佐守従5位に
任じられた。で、関東にくだり、今の渋谷に住んだ。重家が八幡に祈って得た男の子が金王丸。(金王八幡神社
の社伝による)〔本をほとんどそのまま写したのですが、途中、ちょっとなぞじゃないですか?〕
もうひとつは、相模国渋谷庄の渋谷氏の支族がこの土地を領したからと出ております。
目黒は、馬畦(めぐろ)説と目黒不動から取った説というのが有力らしいです。その昔、牧場を管理するものが畦道を通って
馬を見回り、その畦道の中を自分の縄張りとしたというのが馬畦説(目黒区史 昭和36年)
ほかに「め」は窪地、谷で、「くろ」嶺とする地形説。すぐれた黒馬がたくさんいたからというのもあるらしいです。
おミヨさん。
東京人8月号、本屋に急いでいってみます。「空中電車」乗りたい。しかし、今まで聞いたこともありませんでした。
(て、当たり前。渋谷区民になってから、そんなに古くないのです。てへへ)←あっ、顔文字っぽい。

ところで、佐野真一の東京ガスOL事件の本を読んでいたら、渋谷に関して興味深い記述がありましたよ。
事件のあった辺りは、ダム建設のために埋没した岐阜の方の村の人たちが旅館業をやっていることが多いそうです。
サンカつながりしたら、興味深いのに。
ところで渋谷に「山家」ていう飲み屋があるけど、山家はサンカとはっきりと関係ないんですよね。
単に山里の家ですよね。

ヤゾ− - 2001/08/06(月) 00:07<

虹の戦士

みなさん、こんばんわ。

バリ師さん、はじめまして。
とても貴重なお話を聞かせて頂きました。
サンカの人なら、毛鉤を作るのもテンカラ釣りも上手な気がします。
HPを見させて頂きました。
アイゴの絵や魚拓が素晴らしいですね。
ここのHPにも釣りに関したページがあります。
今後とも、よろしくお願いします。

没義道法主さん、はじめまして。
八切止夫さんの贈呈本がたくさんあるなんて凄いですね。
また、お話を聞かせて下さい。
今後とも、よろしくお願いします。

>その地域の成り立ちによって、差別されてたり、しなかったりするようで、
>一概には言えないと、専門書にありました。

その辺りにとても重要なものが隠されているのでしょうね。
この国の差別の原形とは縄文を抹殺しようとする意識から生まれたように思ったりもします。
それは縄文に対する後ろめたさであったりコンプレックスのようなものなのかも知れません。

アメリカインディアンの言い伝えによると
地球の環境が破壊されてどうしようも無くなったときに、
虹の戦士たちが現れて地球を救うといいます。
またホピ族の予言では、
母なる大地が瀕死の病にかかり、
動物や植物たちが姿を消し始めたとき、
人種も信仰も肌の色も異なる虹の戦士たちが世界各地から集まって、
大地を再び緑に潤すための仕事を始めるのだといいます。
その虹の戦士になれる魂を持ち続けたが故に、
縄文系の人たちも先住民系の人たちも差別されるようになったのかも知れませんね。

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/05(日) 23:53<

拝復NA−NI様

NA−NI様、早々にお返事ありがとうございます。

先日、友だちが貸してくれました「又鬼と山窩/後藤興善」(但し復刻版)の巻頭に「播州サンカ夫婦」の写真が載っておりました。(この魚は大きなハゼのフルセに見えますが・・・)何度も何度も見ているうちに、こりゃ「サンカ」を調べなあかんなとこのページに辿りついた訳であります。

「終戦後、市川で毛鉤を振るサンカ」という一つの釣りの風景を追い求めております。その人は川で鮎や鰻を捕ってきては、町内を売り歩いていたとか。毛鉤も含めて魚釣りの仕掛けは、けっして他人に見せなかったと師匠から聞いております。

過去の掲示板も一通り読ませてもらいまして、久々に脳細胞が活性化いたしました。ただ私は軸足を「魚釣り」に置いているためか、やや違和感があることを皆様ご容赦願います。せばまた。

とんちんかん小僧 - 2001/08/05(日) 23:18<

陰陽忍軍歌 (6)

Donglyさん NA-NIさん
『別所』の事でいつも勉強させてもらってます。これからもまた『別所』の事に
ついてご教授願います。ありがとうございました。

あかねさん
こちらこそ、初めまして。今回の播磨の話は、忍びの話の中で最も重要な位置にある
話になるでしょう。お楽しみにしていて下さいね。今後ともよろしくお願いします。


副題:“里隠れ”の常吉

 かつては、山陰の因幡・伯き・出雲・隠岐・石見の五ヶ国に、山陽の播磨・美作・
備前・備中・備後・安芸の六ヶ国を領有し、二百万石を誇称した尼子氏は、出雲国の
月山富田城を本拠として始祖経久以来六代にわたってその武威を誇っていたが、義久
のとき(永禄九年=1566・11月)、尼子に臣従していた毛利氏のために尼子氏は滅亡
させられた。〔この後、尼子遺臣たちは、尼子氏主流の血をひく僧慈昭(じしょう)
を見つけ体制を立て直すが史実では滅びの運命でしかなかったが〕 −つづく。

ヤナギムシ - 2001/08/05(日) 22:19<

残念・・

ナ・ニさん・・あきまへんわ
  おませんでした・・
  isiiにロッジにもいったんやけど・・残念おませんでした
    でも・・いろんな本屋によって
     面白そうな本、見つけてきました
  紀伊国屋の民俗学のコーナーにいる時
   どかちんのユニホームの兄ちゃんが、私の取る本に興味あるのか
    覗きこんでいました・・・・
          熊野ファンかななんて・・
           考えてしまいました・・そんな訳無いか!!

           袋ナガサ見た人教えてね・・・
                           やなでした

没義道法主 - 2001/08/05(日) 20:59<

はじめまして

前々から時折こちらをのぞいておりました。でもテレビ見逃しました。残念。
ここ十年、日本先住民族史、と言うようなものに興味をもっています。
きっかけはかの小山先生に縄文関係の本をいただいたことでした。
それ以前にも、なぜか我が家には八切氏からの贈呈本がたくさんあり、
「なんじゃこりゃ」と思いながら気にしていました。もう歳も歳ですし、
そろそろ自分の好きなことを研究していこうと思っています。ただかなり微妙で危険なのですが。

大阪府池田市の山端、今でこそ立派な道がありますが中世まではまさに「行き止まり」だったろう
場所に「伏尾」があります。やんごとない方に元気な皇子が生まれ「不死王」と喜んだことが
地名のおこりと言われていますが、どうもビンときません。
摂津源氏の本拠地、多田に近いこともあり、「俘囚」のなまりでは、と考えています。
FUSHIU→FUSHIWO
と言う変化………やっば無理かな。

NA-NI - 2001/08/05(日) 19:15<

テンカラ

バリ師さま。はじめまして。

テンカラは伝統的餌つりから転じたとも聞くのですが。
職漁師(渓流魚を釣って、近辺の旅館、温泉宿の食材として卸す)が、高度成長期までは1.5号〜2号の通し
(ハリスとみち糸が一緒になっている)で、オモリはナシ。少しひねりを入れた袖針12号をオモリを兼ねて
虫エサを流し、アクションを少し加えて釣っていたと聞きます。
12年前にそれで、婚姻期の尺ヤマメを釣り上げたことがありましたっけ。。

ナ・二 - 2001/08/05(日) 19:07<

ナガサ・丹波

ヤナギムシさん、こんばんは。

>IBS・ISII SOPRTSかいな あした、行って見ます

「ICI 石井スポーツ」という登山用具とスキーを扱っている店です。
関東でしたらあると思います(神田神保町あたりにあるかな?)
ン年前にフクロナガサが売ってあるのを見かけました。(どこかですって?ひ・み・つ♪)
今、置いてあるかどうかわかりませんし、西根さんのナガサではないかもしれません。

あかねさん、はじめまして。ご教示ありがとうございます。
隼人の処とエミシの処は近接していた(いる)かも知れませんね。強制移住されたということは
政治的になにかの労力に使っていたということでしょう。

横レスですが、エミシが絡んでくるかもしれないので。

>「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜。はこう、はこう、鬼パンツ。
 貴方も私も〜、みんなではこうよ、鬼パンツ。♪♪♪」  

災いがやって来る方角−鬼門−と呼ばれた北東は丑寅(艮)とも言います。大和から見た東北っちゅーことでしょうか?丑−鬼の角、と寅−鬼のパンツと聞きます。

>鉄生産の増加する時代は、兵主神社配置時期とも重なってるようです。
>この社のある付近には、播磨や丹波、特に但馬でもそうですが、隼人系地名が残ってたりします。
探せば、
>エミシ系地名もあるのでしょうけど、忘れました…。すみません
>それから丹波にも白山と白山神社や、修験の大道場だった丹波大岳があります。

兵主神社ですか、存じませんでした。隼人系地名もあるのですね。実はハヤトの強制移住についても関心を
持ち始め、
ハヤトの末裔の方の掲示板で尋ねたり、別のハヤトのサイトを覗いているのですが、よくわかりません。
別所の話題飛び交っていますが、ハヤトの移住地に関してご存知でしたらいろいろご教示くださりません
でしょうか?お願いします。
エミシ地名に関しては私もよく分からないのです。ただ、ヤマト王権が政治的意図でつけた地名で痕跡が
探れます。また、アイヌ語に近似した言語、という意味で、前述したと思いますが、九州 求菩堤山八合目の「乳呑坂」はアイヌ語でいうチノミシリに相当すると考えています(地形が酷似しているとききました)。
求菩堤山も英彦山(吉野・熊野・羽黒・日光と並ぶ九州修験の総本山)とともにエミシの臭いが強い。

丹波といえば、香住町あたりか久美浜でしたか?エミシが蜂起・逃走を図って、殲滅させられた処があったはず。瀬戸内の神島あたりもそうでしたかな??

あかね - 2001/08/05(日) 18:46<

鍛冶・鋳物師

ヤゾーさん
 山民、職能民、鬼が出て来ると、喜んで脱線ばっかですみません。彼らこそ縄文人の子孫
(色々混ざってはいるけど)、天皇制の生まれた謎を解く鍵を握る云々の話、同感です。ワ〜イ(^o^)
 ほんでお気づきだと思いますが、訂正です。近衛天皇は12Cでしたm(__)m 寝ぼけとりました。あかん
そして『姓氏家系大辞典』に、近衛天皇の朝、藤原姓(田○家)を賜ふと称す、とあるが正解です。
この鋳師家は、和銅年間より鍋釜鋳造を業としたと伝わりますが、まぁ、飛鳥道北端辺りに
古くからいた鋳師の一つなのだと思う。
 鍛冶の中でも、鍛冶職の神人が、朝廷勢力に押されて流浪の民となり易く、そのうち手職を受継いだ
者は自活できたけど、そうでない者は奴婢の状態に陥る事もあったらしい。安定生活を得た鍛冶と、
さすらった人々の差が、この辺に始まるのでしょうか。なんだかなぁ…
 関係ないかもしれないけど、秀吉は日吉信仰を持つ石積の村に生まれたのは有名ですが、
美濃の、ある鍛冶村で、鍛冶を習得した、という伝説もあるそうな。忙しいこっちゃ

おミヨさん
 雷さんのパンツは虎皮パンツ♪。雷神は山海教や、中国の天地開闢の神の息が風雲に、声は雷鳴と
化した神話に由来するそうな。雷鳴は龍神で、太鼓がつきものだけど、虎皮で太鼓をつくったのだっけ?
忘れた…。雷神は中国の山民=鍛冶の姿なのかもしれません。風の神のほうはふいご、シ尤・兵主神で、
風も水も精練に欠かせませんよね〜(^o^)V。
 鎌倉期の「北野天神縁起絵巻」の雷神は、虎パンツをはいてませんね。何でだろ。衣の色に意味が
あるのかな。衣の主な色は、中世の一般的な青みの濃い緑色で、狩衣などに用いたトクサ(木賊)色
(→後に青竹色と呼ばれる)のように見えますが、退色してるでしょうから、もっと深い緑だったかも。
あと、白と柿渋なのでしょうか。衣の色も奥が深いですね。
 あ、私もよく父方の祖父におなごのくせに〜って言われたもんです。苦手やわ〜、この言葉。

min-minさん
初めまして。つっこませていただきます(笑)。関西人と言っても地域で性質はだいぶ異なります。
最も賑やかなのは大阪南部かもしれないけど、少なくとも、京都・丹波・但馬は
外したほうがいいかも、です。特に但馬は言葉がスローテンポです。

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/05(日) 13:19<

サンカとテンカラ(和式毛鉤釣り)

冠省。元々は山の職漁師の釣りやったと言われるテンカラについて調べております。

そもそも私にテンカラの手ほどきをしてくれた師匠は、戦後すぐ、近所の「サンカ」から毛鉤を習ろたと申しておりました。最初は「あっち行かんかえ!」と怒られながら、その技を市川(播州姫路)の河原で盗み見していたようです。

もちろん竹の竿に、柿渋で染めた糸を振っていたようで、「毛鉤でジャコ100匹掛けたら、上へヒラベ(アマゴ)釣りに連れていっちゃる」と言われ、川で「正正正・・・」と数えながらジャコ掛けの修行をしとったもんやと遠くを見るような目で話しておりました。

その師匠が亡くなって五年目の暑いお盆がやってきますが、サンカと毛鉤釣りに関する情報・記述・伝聞などご存知の方がおられましたら、ぜひ教えてくださいませ。

追記:私のHPは「アイゴ大全」というバリ釣りのページです。何故か「画像掲示板」にバリの写真が載っておりましたので、お暇なら覗いてみてください。頓首。

min-min - 2001/08/05(日) 12:53<

関西人と中国人

はかねてよりよう似てると思っている自分。← (ちゃうだろが!というツッコミがすぐきそう)

おミヨさん、
>>ところで関西のお葬式の車は装飾が派手に飾りたて東京とまたちがうようです。

そうか、やっぱり葬式も派手ですか。僕は大陸の中国の葬式はようわかりませんが、その大陸
のどちらかというと南部から流れてきた人間が多い台湾でのそれについて多少知っております。
台湾式葬式の中でも特に「道教」の葬式は派手です。車はそれこそ『花電車』の如く飾り立て
その数だって半端ではありません。時には百台を越える数の車の大パレードとなります。

今でこそもう無いだろう、と言われているのですが、僕が居た十年くらい前までの田舎では
スッポンポンの『ストリップ・ショー車』がやって来た。まさかこれが葬式関連の“催し”
とは思えず、なんじゃこれは?と問い質したところ、「故人がとってもアレが好きだった
ので、その供養のためです」と。(爆)

そうそう『泣き女』だってスゴイんです。葬儀のあいだ中(これが何日間にも及ぶ)この
泣き声をラウド・スピーカーで垂れ流す、という暴挙?に出るのです。

この上述の内容がそのまんま“関西的”だとは言いませんが、なんか感覚的に共通する
ものがありません??

ちなみに、福建省あたりからやってきた中国人同士が普通の会話?をしていると、近隣
の日本人が「外国人どうしがケンカしてます」と110番しちゃうことがあるそうですが、
その福建省と同根の人々が多い台湾で、台湾人に『うるさいねぇあの人達!』と指をささ
れた唯一の人達は誰あろう【関西のオバサン達】だったのです。(爆)

これ以上書くとヤバイかな?止めます。(^^ゞ

min-min@横浜

min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/08/05(日) 12:10<

呼ばれたような気が。

donglyさん、

>>今MIN-MINさんが「別所」探しをしておられるようです。バトンタッチをお願い。

ど、どこからこのような情報が・・・?

「別所」探しではないのですが、確かに「ルーツ」探しはしてまいりました。
先月の16,17日にかけ石川県は能登島まで車で行ってまいりました。
先祖の地にあるお寺を中心に訪れたのですが、ご住職にお話しを聞いたところ
現在は浄土真宗であるが、以前は天台宗の寺であったこと。更に昔は修験道の
「白山信仰」の霊場であった等々、興味深い話しがゾロゾロ出て来た感じです。

墓の名前を見て祖先もせいぜい天保のあたりまで辿れるかな、なんて思ってい
たのが更に一千年以上時空を越えての話しになりビックリ。祖先はどうみても
“渡来系”かな?と思われるのですが、皆様はいかがお考えになるでしょう?
時間がありましたら拙HP覗いた上でご教授されれば幸いです。

min-min@横浜

おミヨ - 2001/08/05(日) 07:53<

Donglyさん

有り難うございました。
ところで関西のお葬式の車は装飾が派手に飾りたて東京とまたちがうようです。
2年程前に東京の友達と「有馬温泉」に行った時、お葬式に出会い「これは何?」って
吃驚していました。お葬式も各地の風習があるようで面白いですね。

サクラさん あかねさん
雷小僧さんは虎のパンツはいてませんでしたっけ?

あかね - 2001/08/05(日) 04:00<

寝ぼけてます

NA-NIさん
ごめんなさい。兵主神社は丹波には、なかったと思います。隼人地名は但馬と、播磨の姫路にあったと思う
ただ、播磨に二つある兵主のうち、東播磨北部にある社付近は奈良初期、丹波だった時期があるので、
その意味では丹波となるかもしれません。兵主19社の内、兵庫県に10社あり、うち8社が但馬にあります。

あかね - 2001/08/05(日) 03:26<

本題からズレてごめんなさい

Donglyさん
教えていただき有難うございました。赤松は約150家あり、在田・四天王家・36家に加えて、88家プラス
家の子というわけですね。播磨・岡山は至る所、末裔だらけだなぁ。本宗家断絶故なのでしょうね。

とんちんかん小僧さん
初めまして。陰陽忍軍歌、楽しみにしてます。今は播磨が舞台なんで特に楽しいです。

ヤナギムシさん
鉄を打つ…と南部鉄、同感です。嬉しいなぁ(^o^)

サクラさん
虎のパンツで体操ってもしかして、この↓歌から?
「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜。はこう、はこう、鬼パンツ。
 貴方も私も〜、みんなではこうよ、鬼パンツ。♪♪♪」  お下品で失礼しました
これは何かの替え歌で、今でも歌えます…。中学の頃、体育の先生から、振り付きで教わりました。
コレ、体操らしいんですが、恥ずかしい振り、だったような気がする…

ヤゾーさん
なるほどなぁ。9C、京都にいた河内鋳物師大工の一家は、近衛天皇から藤原姓を賜っており、
以後も代々鋳師で、江戸期は惣官鋳師として、釣鐘を中心に多くの名高い作品を残してます。
でも、これとは別に、鋳師の藤原姓一派?自体は、更に古く遡るらしい。
他には山城守や秦などの鋳工が飛鳥におり、鉄工では物部の姓を持つ者もいたそうな。
いずれも最下級の官人か、無位です。そこへ百済からの錐盤(ろばん)博士たちや瓦博士等が加わってます。
縄文から弥生、後の世へと鋳師、鍛冶等にも時代や技術革新、権力の推移、土地の支配者の要請等に
よって、色んな系統が混ざり合って移動してるようです。
彼らのうちで権力配下となった者の多くは夫々の地に土着し、中には本業の他に農耕に携わり土地を
持って地域の重要な地位についた者もあります。その理由は、当初は姓を得た故なのかもしれません。
つまり、支配側に取り込まれた結果なのだろうなぁ。
差別については、後々の四国や美濃等の「鍛冶の村」や付近でもそうですが、その地域の成り立ちに
よって、差別されてたり、しなかったりするようで、一概には言えないと、専門書にありました。
あと、関係ないかもしれないけど、播磨は播磨獅子?とか言われ、やたらと獅子舞が各地に残ってます〜。

NA-NIさん
初めまして。鉄生産の増加する時代は、兵主神社配置時期とも重なってるようです。
この社のある付近には、播磨や丹波、特に但馬でもそうですが、隼人系地名が残ってたりします。
探せば、エミシ系地名もあるのでしょうけど、忘れました…。すみません
それから丹波にも白山と白山神社や、修験の大道場だった丹波大岳があります。

サクラ - 2001/08/05(日) 03:26<

ストラップで...

ピンクのトカゲさん

お土産やさんのナマハゲさんのように、
    今は愛らしく優しくなられているとか...
          それでは捜してみましょう
                   ピンクのトカゲのストラップ

やぞーさん、
    竹細工のストラップなんていかがでしょうか?
        どんぐりや教会やおミヨ人形のストラップもほしいなぁ....
            もちろん一押は、タヌコです。

ヤナギムシ - 2001/08/05(日) 02:28<

おおきに

MA-NIさん・・IBS・ISII SOPRTSかいな
  あした、行って見ます

ピンクのトカゲ - 2001/08/05(日) 01:22<

ナマハゲ

サクラさん
ピンクのトカゲもナマハゲと同様、昔はコワカッタですよ。
いまは優しいけど(特にサクラさんのような女性には)...
ところで、ピンクのトカゲのイメージ沸きましたか?
考えてみると、おれもサクラさんのイメージって...
想像しますよ。夢膨らませて

NA-NI - 2001/08/05(日) 00:17<

別所に関してもう少し。

Donglyさんはmin-minさんにご依頼されたようですが、かってに語ります。
すみませんね。

別所のキーワードとしては前述しましたが、「白山権現」というのもあります。
また、鉄生産の盛んだったところも抑えればいいと思います。出雲や九州北岸は好例です。
大和王権における鉄生産が増加したのはエミシ征討-強制移住のピークに差し掛かる7世紀からと
も聞きます。それから山間僻地や防人の配置するに軍事地理的に重要と思われる場所、王陵の付近
というのもあります。ロードマップで探していくうちに「別所くさい」ところが段段わかってきます。

これの応用編で、奥州藤原氏の教化支配と統治領域(白河関から外が浜[青森市]まで)もサワリでわかります。

ヤゾ− - 2001/08/05(日) 00:05<

古本屋にて

『縄文夢通信』と『闘論・二千年の埋葬』というの求む。合計600円也。

『縄文夢通信』山の民・サンカとは何者であったのか?

一般に山の民と総称される非農耕の民たち・・・サンカ、木地師、鍛冶師、山師(採鉱者)、マタギなども、
ナガスネヒコ、役小角らの末裔としての技術者集団である。

『闘論・二千年の埋葬』

栗本慎一郎 ・ そう農耕にたずさわっていない人々、つまり山の民や職人、芸能民たちは、弥生時代以来、
周辺に追いやられてしまった異端者ですが、彼らこそ縄文人の子孫であり、天皇制の生まれた謎を解くカギを握っている人たちです。
彼らのあいだには、天皇家とのかかわりの伝説が執拗に語り継がれている。
鋳物師は近衛天皇、木地師は惟喬親王、獅子舞いは後嵯峨天皇・・・
ところが中世を境に、そういう職能民たちは、逆に差別の対象になっていく。


>泣き女

小さい頃に、大して親しくもないのに、葬式に現われては泣き通す婆さんがいて、
みんなが泣き婆さんと呼んでいたのを微かに覚えています。
僕は記憶力は良い方なので、結構いろんなことを覚えてます。
でもスーパーへ買い物に行って、一番欲しかった物を買い忘れることがあります。
昨日も、醤油が切れたのでスーパーへ行ったのに、見事に買い忘れてきました。
それで仕方なく醤油をかけずに豆腐を食べました。
「おミヨさんちのピーちゃんか!」自分で突っ込んでしまいました。


>どなたか・・西根さん作のナガサ売っているところ
>           ご存知の方お知らせください

ウメガイでは駄目ですか?
伝統和刃物もいろいろと揃えているようです。

http://www.toyokuni.net/syuryou/ume.htm

「悪いゴ、いネガぁ!?」
「言うゴド聞かネゴ、いネガぁ!?」

 は〜い (^_^)/

NA-NI - 2001/08/04(土) 23:58<

言葉・フクロナガサ

桃色蜥蜴さん、レスありがとうございます。

一連の話題から逸脱しましたが、おっしゃられたとおり、私もここのBBSで述べるにはふさわしいのでは?
と考えましたので。また、私のレスとは別に本題のレスをどなたかがされるとかということで、妨げられないのでは?とも考えます。

世界あまたある言語で文字を使用しているのは5%とかとききます。
で、独自に作り出された文字はその中でもすくなく、多くはオリジナルを借用したり、アレンジしたり
改造したり(かな文字とチェロキー族の文字はそうかな?)というもののようです。

>実際の会話の中では、子音の連続するする場合もありえ、電話、コンロも確かに鼻音化「ng」します。
これは「ng」ではないようですよ。

それにしても かな文字は使いにくい。

>韓半島の威鏡道出身者が日本語を覚えると東北訛になるという話

するどいご指摘。ズーズー弁と韓国語は似ているなぁと思ったりします。
威鏡道方言は聞いたことがありませんが。
母音の縮約化、語頭無声音-語中語尾有声音など。

ヤナギムシさん
>又鬼山刀・(マタギナガサ)
>注文を入れようとHPを開いた・・
>唯一の製作者三代目、西根 正剛氏62歳で他界されていた・・ご冥福を、お祈りします

私の勘違いではなければ、後継者をあえて育成されなかった方ではありませんか?
この方のナガサはもはや現存分しか存在しなくなった、ということですか。。

ISHII SOPRTSに、置いてあったフクロナガサは違いましたか?
(買おうと思ってお金がなくて断念していた。)

別所の話題が継続しているようですが、
修験で高名な山にも白山信仰が根付いているようですね。逆に白山あるところ修験もあるか。

サクラ - 2001/08/04(土) 23:49<

むかし...

鬼は闇の中、神ともいわれ、超自然的存在として恐れられていた..
      鬼に、ただ娘を差し出し、それ以上の災害から護ってくれるようにと...
時代が進み、人間の世界に灯りが多く点るようになると、
      鬼は神の力を失い、人間は対等になり、鬼を切り勝つものまでも現れた...
そして、ますます光が強くなって、人間が力を増すほどに、
      鬼は、豆を蒔かれて、逃げ惑う存在となり...
          虎のパンツで体操までするようになった..
神は妖怪になったのだろうか?

闇がすくなくなったこのごろに、
闇の世界に隠された、妖怪になる前の気高く、
生きた鬼たちは、今もきっと生きている...この少ない闇の中で。

ナマハゲさん、貴方は昔はもっと恐ろしかったはず..
       今はお土産屋さんで、愛らしくなってしまったけれど..
          時には闇にかえり、貴方の心を語ってほしい...
                わたしは耳すませ、聞きたい...

ヤナギムシ - 2001/08/04(土) 23:28<

・・・・・・・

又鬼山刀・(マタギナガサ)
  注文を入れようとHPを開いた・・
  唯一の製作者三代目、西根 正剛氏62歳で他界されていた・・
ご冥福を、お祈りします
    
    鉄を打つ・・・・
     刀鍛冶  アイゼン  ピッケル  なぜか
      ひかれます・・
  南部の鉄瓶なんかも、とてもあたたかく、感じます

      どなたか・・西根さん作のナガサ売っているところ
             ご存知の方お知らせください


                      ・・やなぎむし

Dongly - 2001/08/04(土) 23:23<

泣き上手と下手

 おミヨさん
琉球で泣き女の上手な者は二升の米を貰い、下手な者は一升貰う事になってたよう
です。それぞれ「二升泣き」「一升泣き」と呼ばれます。野鍛冶に仕事の礼として
普段から準備した屑米を与えた地方もありますので、上等な米を与えたと考えない
方が良いと思います。正月餅で「荒金」という米粒入りの餅がありますが、これが
名残かとも思っています。「荒金」は鍛冶筋の伝統かもしれません。
また葬礼時泣くという風俗は全国共通ではなく、限られてるようです。異なる風俗
を解きほぐすか、またはよりあげれば、日本は多人種列島である証明ができると期
待しています。この古俗が朝鮮半島風である事は、親を亡くした百済人桓武天皇が
「アイゴーアイゴー」と大泣きした記録からも明らかです。残念ながら民俗学は、
この風俗は何所から?を徹底的に問わないできました。恐らく日本が多人種である
事に予感して、タジロイダと思います。民俗学が成立動機の素晴らしさにも拘らず、
歴史学(文献史学)を乗り越えられなかった原因の一つは、日本列島が単一民族
から成立するという仮説を、自ら打ち破れなかったためでしょう。
 とんちんかんこぞうさん。
 山陰・大阪・和歌山も非常に多い所です。特に紀州熊野は「修験」「山人」の形で
別所者の多い中世期までは一巨大拠点でした。当時勃興した侍階級(これも別所者が
多い)に対抗するため、天皇勢力は熊野詣でや吉野詣でを繰り返しました。「詣で」
といっても神仏の加護ではなく、自らのために死んでくれる者を「権威」を利用して
「左担:さたん」させるための「お願い」です。それに上手く引掛ったのが産所の
長吏の楠木だと思います。または楠木はその天皇と同一人種だったかもしれません。
 別所地名は掃いて捨てる程で、まず鷹巣・高鉢・高八・高尾など高=鷹が付く山を
地図で見つけ、その山の周囲の地名を探します。また鬼が付く地名も要注意です。
鬼は「別所」と共に反抗する別所者(『三代実録』『続日本紀』には「荒夷」と記し
ています)の意味の地名かもしれません。宗教的には薬師観音(如来)・十一面観音
などで、更に絞込みが出来ます。探訪会の「吉野」川も別所を示す名前です。
 別所者のうち「熟夷」に対しては別所の地名を使用していません。
どうも「別所の設計図」は熊野本宮とその周辺に「集約」されているようです。
 今MIN-MINさんが「別所」探しをしておられるようです。バトンタッチをお願い。

とんちんかん小僧 - 2001/08/04(土) 22:35<

秋田のなまはげさん

 山神(赤神さま)に五穀豊穣、水産豊漁を祈願する神事である。
 「柴を焚きて燈明として奉る」ので柴燈神事ともいうそうです。
 拝殿での祭式が進み、祝詞奏上がおわると法螺貝(ほらがい)の音が亮々
と鳴りわたる。これに誘われて幽闇の奥から鬼神が姿をあらわす。赤鬼と青鬼
である。怪奇な面、全身を包んだ藁蓑藁沓(わらみのわらくつ)、かまで作っ
たはばきをつけた鬼たちは松明をふりかざして険しい坂路を下ってくる。
 鬼神が庭びの近くに寄ると、宮司が三宝に載せた焼餅を献する。それを荒々
しく受け取ると鬼神は無言のまま、再び奥深い杉の下闇のかなたに姿を消す。
 「なまはげ」が里に下り、また、漠の武帝にこじつけられるようになったの
は後世になってからである。
 ナモミ(怠け者の脛にできる火形)をはぎ取り、こらしめるという予祝行事
とも、紅毛の漂泊民がもたらした習俗ともいう。いずれにしても出羽の国らし
い行事といえるでしょう。

とんちんかん小僧 - 2001/08/04(土) 21:41<

陰陽忍軍歌 (5)

ピンクのトカゲさん
情報及び資料ありがとうございました。ゆっくり時間をかけて読ませてもらいます。

Donglyさん
別所関連の地名というのは、山陰地方では多いのですか?大阪や和歌山にも別所地名
はあるのでしょうか?教えて下さい。


「ために、裏切りが出るかも知れんぞ」〔と、徳利〕
「すぐ、様子を探らせましょうがの、裏切りが判れば、こっちで始末すりゃええかの」
〔と、徳久〕
「いや、誰が裏切るか判るだけでよい。赤松政範にも知らせるな」
 徳利老人は軽く鼻先で笑い、東播磨三木城二十四万石別所長治が、織田信長に味方
するという約を破り毛利側へ寝返ったこと言い、そしてツナギの要件として、『三木
城との緊密な連絡をとる事』、『播磨における木陰の暗躍を極力封鎖妨害する事』、
『岡山城の宇喜多直家の行動を厳重に監視する事』を伝え、さらに、「このことはわ
しの考えだがの」と前置きして、秀吉の指揮下に入っている尼子勝久の抱える忍者、
鉢屋七平とその一党の動きにも十分眼を配るようにと言った。
 徳久は、もうすっかり暮れ果てた暗がりの中で老人を見守りながら、
「上月側から出る裏切り者のことが判明しても、赤松政範に知らさない――とは、どう
いうわけじゃろうかの」
「こっちへ来い」
 徳利老人はそれに答えず、徳久をお堂へから離れた崖っぷちに誘った。暗い谷間の方
からかすかに滝の音が響いてくる。
「播磨つぶしじゃよ」老人が小声でいった。
「播磨つぶし」徳久も小声でいった。
「毛利元就さま、ご遺命の中に、播磨つぶしがある。このご秘命は、わしが直にお受け
した。このようなご命令は、いつでも、わし一人が直にお受け申してきた。元就さまは
、わしにこれは遺言だと申された。毛利安泰のために、中国の関門である播磨を潰せと
のご命令じゃ。わしは、そのために働いておる」
「播磨つぶし?」
 まだ怪訝そうに呟く徳久に、
「もうじき、わかろうぜ」
 と、老人はこともなげに言った。  −つづく。

おミヨ - 2001/08/04(土) 20:56<

>泣き女

Donglyさん
葬式時に泣き女というのは全国的にあった風俗なんでしょうか?
職業として成り立つと面白いですね。
身振り手振りを出来るだけオーバーに大泣きですか?
一升泣くにはちと大変なような・・・。

夏祭りたけなわですね。
岸和田の「だんじり」は威勢がよくてすきな祭りです。
 

やぞー - 2001/08/04(土) 00:03<

秋田のナマハゲ(なんだか涼しい話題でしょ?)

秋田にナマハゲというのがありますが、
ロシア語で武器を振り回すことを『ナマハギ』というそうです。
それで北西風で漂流してきたロシア人が武器を振り回して暴れた。
それはまるで日本人から見れば鬼のように見えたのかも知れません。
恐ろしいから戸を閉めて、女子供は隠れて、そこの主人が酒を振舞まって帰って貰う。
その名残りではないかとの面白い話しがあります。

sakingno1さん、はじめまして。
自動リンクもありますので良かったらご利用下さい。
今後とも、宜しくお願いしますね。

Dongly - 2001/08/03(金) 22:14<

泣き女に加えて

 「泣き女」は琉球で。「泣き婆」は延岡・淡路沼島。「泣き婆さん」岡山。「なきめ」伊豆
七島。「泣き手」秋田・鹿角。また石川県で「したいしたいと言うたが さすりゃよかった
綸子の舞を」、「旦那さま これからは誰を旦那といえばよいか」、「アナアネヤ−イ カア
イヤサー」などと語る(歌う?)そうです。南方や百済の風俗とも。
 「桶屋」は棺桶も作りますが、棺台となる御輿(こし)を作るのは最も金になる仕事です。
桶屋の別名「いいだ」は多くがサンカ系の模様です。この筋の隠語で棺桶を箪笥と言います。
東京新宿に「箪笥町」があります。確か、鉢屋秀吉の親戚・福島正則はこの筋でしたね。

桃色蜥蜴 - 2001/08/03(金) 21:20<

皆さんすみません横レス付き合います。

NA-NIさん
文字は、言葉を地理的あるいは、時間的制約を超え伝えるためのあくまでも道具。
最もわかりやすい例として『ん』を例としましたが...
日本語は、ご存知のように、母音(アイウエオ)及び子音(k.s.t.n.h.m.y.r.w)及び母音の結合でしか、言葉を表記できません(外国語の表記が困難なことはこれに由来する)。
しかし、実際の会話の中では、子音の連続するする場合もありえ、電話、コンロも確かに鼻音化「ng」します。あとに「k音」が続くときのみを「ng」としたのは、勇み足でした。ご指摘ありがとうございます。
実際の会話においては、日本語においても子音の連続があり、子音同化がされているものと思います(例えば、r&l音)。
特に方言等の音韻(イントネーション等)を含め、考察することは、民族論(民俗ではない)の解明にもつながるものと考えています。
たとえば、韓国語の漢字と日本語の漢字の音読には、音韻上の一定の法則(特に、蝶々を「てふてふ」等、旧仮名遣いで表記した場合には、顕著に解ります。)があります。
また、韓半島の威鏡道出身者が日本語を覚えると東北訛になるという話も聞いたことがあります。
多民族国家としての日本の淵源をとらえる上でも、重要な課題と考えます。
大分、サンカ文字からはずれました。皆さんすみません。

NA-NI - 2001/08/03(金) 20:17<

横レスで失礼します。

>現代の日本語を音韻学から考察すると、『散髪』等あとにp.b.mがくる場合には、「m」、『観光』等あとにkがくる場合は、
>「ng」、そのほかの場合が「n」である。つまり、実際には、三つの音を使い分けているのに表記は、『ん』一つであるということになる。

「でんわ」の「ん」はw(u)の鼻母音、「コンロ」の「ん」は、rの鼻化音と思われますが、いかがでしょう?
文字が一つだから一つの音である か のように思い込んでいるというのは結構あるかも。
万葉の時代には、pとhの中間のような音(f?)があったとか聞きます。
hとp・bは全く別の音なのに濁音・半濁音・濁音(ナンセンス!爆笑)とするのは、その名残りなのかも。

ちなみにうちの故郷の言葉は日本語の「ウ」より口をすぼめる u音があるような気がするんですけれど。
表記でしばしば 「う」か「お」と書き換えられるようです(例:オイノ・オイヌ=狼、サヨ・サユ=稗粥:岩手郡葛巻町)。ズーズー弁は奥深いですねぇ。

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/03(金) 18:14<

棺台御輿と泣き女

 おミヨさん、見ました棺台となる御輿。岡山作東町探訪会で、とんちんかん小僧さ
んの話に出る白水川の西筋の、角南(すなみ)の十一面観音堂。御輿といえばお祭用
とみるだけではダメですね。ただこれを作るのはサンカ大工だとか。角南にはオゴエ
・オカミ・カケ・ノベの四集落があります。カケは奥から西2kmの所です。
 泣き女は葬礼時に米1〜2升を貰って雰囲気を盛上げる為に専門に泣く女。百済
の俗です。葬礼客の姿を見ると急いで大泣きを始め、帰るとヤメです。「1升泣き」
「2升泣き」などランクがあります。リストラ対策で復活したい風俗ですネ。
 とんちんかん小僧さん。奥から西4km、箕・まさか町との山境に鈴家山薬水寺
(真言宗・薬師如来、北向観音)があり、もとの地名は「高尾山」で別所地名。
もちろん山砦のような寺は赤松の配下で、麓からの寄進者の幟がはためいています。
 この近隣の町々に寺院や大樹が多く残されているのは、山民(修験・忍び)のア
ジ−ルだった証拠かもしれません。また調査したいところです。

ピンクのトカゲ - 2001/08/03(金) 17:19<

古代文字考

サンカ文字をはじめとして古代文字については、賛否両論あるも、アカデミックの世界では、概ね認められていない。
この古代文字論争の論点は、漢字渡来以前に日本に固有の文字があったか否かである。
否定説の根拠は、万葉仮名の表記では、八母音六一音で構成され、その後、漢字の草書体から平仮名が、漢字を一部を略し(部首等)、片仮名が創作された。平仮名及び片仮名が捜索された時代は、既に五母音四七乃至四八音になっており、それゆえ、五〇音前後(サンカ文字は『れ』が抜けるので四六音)で構成される古代文字は、音韻学上、日本語が五〇音前後となった平安時代以降の創作であるというものである。
実際に万葉時代に八母音六一音を使っていたか否かは、確かめようはないが、この八母音説は、否定の根拠となるであろうか?
現代の日本語を音韻学から考察すると、『散髪』等あとにp.b.mがくる場合には、「m」、『観光』等あとにkがくる場合は、「ng」、そのほかの場合が「n」である。つまり、実際には、三つの音を使い分けているのに表記は、『ん』一つであるということになる。
上記の八母音説から言えば、現在の日本語の表記は、音韻学上、正しくないから、これは偽作であるということになる。
さて、サイバー取引等では、暗号のデジタル化がトピカルな話題となっている。西洋においては、極秘に情報を伝達するため、スパルタ式、シーザー式等ギリシャ・ローマ時代から暗号が発達している。一方、日本においては、詳細は忘れたが、六国史において、烏の羽に墨で文字が書いてあって解読できなかった話がある。戦国時代においてさえ、これも詳細は忘れたが、上杉の軍師がちょうどポケベルメールのような暗号を使っていたに過ぎないとされている。
果たしてそうであろうか?私は、サンカ文字等が暗号に使われていたように思えるのである。では、その使用者は?
これから先は、おそらく、『とんちんかん小僧さん』の領域でしょう?深入りはしません。あしからず

きょうかい - 2001/08/03(金) 15:18<

こだわりの渋谷

おミヨさん、こんにちは
 そんなの知りませんでした。想像するに今だと東口の東急文化会館と
 西口の東横本店を結んだのですかねえ・・
 
  今、秩父(乳乳部)平氏〜渋谷氏、目黒氏を探索中。
  渋谷さんや目黒さんは資料が少ないので、情報募集しマース。
  あと、江戸期の目黒には、南朝の菊池さんがいたのですが、ずいぶん
  幕府からは警戒されてたみたいです。なぜなのだろう?
  (たとえば、鷹狩の時に家を目付けに囲まれたそうです)

  今週の日曜日は、渋谷の大和田あたりを探索しようかと思います。
  ここは、戦前は二業地で、にぎわってたみたいです。
  なお、大和田の由来は、北条に逆らって敗走した和田義盛の残党が
  洞窟に住んでたとか・・後の盗賊「道玄」はその末裔
  洞窟を探さねば・・・心眼を要します。
     
     

おミヨ - 2001/08/03(金) 13:39<

おどろ木ももの木・・・・・・・

きょうかいさん ぽんさん
昭和26年〜昭和28年まで渋谷に「空中電車ひばり号」が走っていて、渋谷駅東口の東急百貨店の
屋上から出発して山手線を見下ろす形で横切り、東急百貨店西館にあった「玉電」屋上に達する
全長75メートルのケーブルカーがあり、貴重な写真が1枚だけ鉄道マニヤ向けの本に紹介されて
いたと・・・・・。今の渋谷からは想像もつきません。

みこしは葬儀用の棺台
鹿島郡大野村立原の田んぼの中に延宝6(1678)年造立の観音像があり、これにちなんだ祭りが
泣き祇園。静岡県の浅羽町の八幡神社、岩手県平泉町の毛越寺の藤原基ひらの妻の命日を含めて
日本3大泣き祇園といい、みこしの行列は葬儀そのままの姿で、棺台をかつぎ、供養の旗をたて、
鉦、太鼓のおはやしにあわせ行進。行列にサンカした人々は口の中で経文を唱え「だれだれが死ん
じゃったよう」とできるだけ悲しい口調でつづけて、はっきりしない事を言いつづける。そして
最後に泣きまねをして、なるべく芝居じみたほうが、ごりやくがあるそうです。
なんだか笑ってしまいました。

高原(たかはら)なんですか。高原(こうげん)と読んでましたよん。

「・・忍軍・・・」つづく
楽しんでま〜〜す。

さんかうぶ - 2001/08/03(金) 04:02<

にわかサンカの準備中

いよいよ夏祭だ! しかし暑い!
”餅まき”より”水まき”して欲しいなあ。 ”金まき”でもいいけど。
祭りの後の”宴”、この調子じゃ”炎(熱)”、蚊にさされて”炎症”、オミヤゲ
もらって”○道炎”か?。
セブリも辛そう! 今から既に汗が吹く。 ”冷房効いた私の部屋へ泊りにおいでよ”
とのたまう巫女はおるかな? 喜んで神楽舞うゾ! 予定実行のつもり。

とんちんかん小僧 - 2001/08/03(金) 01:47<

陰陽忍軍歌 (4)

ピンクのトカゲさん
大変貴重な情報ありがとうございました。
今後とも御教授よろしくお願いします。


 秀吉は本陣としていた姫路城から、書写山円教寺へ移って、やがて来るべき中国
攻略の大合戦に備える一方、弥右衛門の率いる木陰衆を播磨の各所へ散らせた。
 もちろん、その主力は上月城とその関係諸城に集中する――にちがいない――と、
いうことは、上月城に近いこのあたり、「敵の目前」どころか、すでに木陰衆の“
網の中”かも知れない。
 木陰をあなどるべからず――徳久は、しばしば組子たちを戒めてきた。
 十月末の山中は錦繍(きんしゅう)の秋だが、日暮れが迫ると冬のような寒気が
谷から谷へと吹き渡る。
 徳久たちは息をころし、冷気に耐えながら、陰の忍役からのツナギ(繋ぎ)を待っ
ている。山の樹林の間に黄昏が降り込め、空だけに赫い残照のほてりが明るく拡がっ
ているころ、まるで、その空から、木の葉が散るようにひらひらと舞い下りて来た―
―何かがいた。
 徳久が思わず「あ」と声をのんだ。舞い下りて来たのは徳利老人であった。
 徳久は、ツナギの仕事に、まさか徳利老人自らがやって来るとは思わなかったし、
徳久が万全と信じた十二人の警戒網をわけなくくぐりぬけて来た、そのことも含めて、
真に、驚いていた。巻袖に裁着袴(たつつけはかま)という、いつもの軽装で小刀一本
身につけていない徳利老人を驚異の眼差しで見つめる徳久に、
「上月城下へ木陰がもぐり込んだ」
 と、徳利老人は言い、
「ために、裏切りが出るかもしれんぞ」
                 −つづく。

ピンクのトカゲ - 2001/08/03(金) 00:43<

偶然です。

ヤゾー偶然だね。私の工場も字高原(タカハラ)です。

sakingno1 <http://www.geocities.co.jp/Bookend/4982> - 2001/08/03(金) 00:39<

はじめまして

山窩について検索していたところ、こちらにたどり着きました。
ほんとに、知らないことばかりで驚きます。
リンクを貼らせていただきたく思います。
まだ全部は見ていないのですが、ますます興味をそそられました。
日本人なのに、日本のことを、私はしらな過ぎたとおもいます。
またお伺いします。

Dongly - 2001/08/03(金) 00:33<

祭りだ!餅まきだ!

 皆さん。お祭りです。夏祭りです。
 神楽や口説や餅まきなどがあります。露天商(昔の香具師!)も
でてきます。熊手や小箕を直売することもあります。
神楽の服装の文様や色、出し物・ストーリー・口説の演題・登場人物
などに注意して下さい。
また餅まきは、趣味と実益を兼ねて、必ず人を掻き分けてでも、跳ね
飛ばしてでも、拾って下さい。○形・□形・ひし形などの他、男女の
シンボルの形をした餅もあります。岡山津山市の志呂神社の餅は、この
形だそうです。また川裾祭は「ゆいちょある」祭りなのですが、サンカ
された方はお知らせ下さい。
 祭の後の「宴」は藪・林・境内・河原に「舞台」を移し、何かの「縁」
となる「艶」「炎」も残っている地方があるようです。

ヤゾ− - 2001/08/03(金) 00:25<

丹下左膳とサンカ

丹下左膳の物語りには、鬼の一族といわれ、どのような権力にもまつろわぬ山の民が出てくるそうです。
山々をわたり歩き、自由に生きる山の民と表現されていますのでサンカのことを意識したのかも知れません。
後の丹下左膳となる田中主膳は藩内の派閥争いに巻き込まれ、無惨にも斬りきざまれて、一度死んでしまいますが、
山の民の巫女をやる特殊能力をもった女性の力で蘇ります。
そして山の民の拠点の丹下谷という全国の山の民が立ち寄るところにかくまわれます。
そこで山の民の自由な生き方を通して、それまでの出世や世間のしがらみに縛られた生き方ではなく、
ひとりの人間としていかに生きるべきかを考えるようになりました。
また謎の乞食浪人から片手剣法を教わり、剣の達人にまで成長してゆくのでした。

おユキちゃん、お久しぶりでした。
夏バテ、お大事にして下さいね。

>渋谷「しぶたに」新宿「あらやど」なんて読んでしまうととてつもない田舎のように・・。

僕の暮しているところは高原と書いて『たかはら』と読みますが、
『こうげん』と読んだら少しは涼しくなるのかな?

>円談のさいは、すこ〜し、こちらにも回して下さい。

は〜い、Donglyさんにはドジョウさんを紹介してあげま〜す。

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/02(木) 23:00<

私にもエン談を

 ヤゾーさん。
 こちら西の国のTVでは残念ながら、放映はなかったようです。といっても
 普段は殆どTVは見ませんので。
 カキ子・カキ娘もふえそうですね。余談ですが、
 塩談・宴談・艶談は延談にして、縁談もありそうーーう。
 円談のさいは、すこ〜し、こちらにも回して下さい。
 それから、炎談は涼しくなってからにして。それまでは酔談だけ。
 ピンクのトカゲさん。
 福山藩主水野?が連れてきたのは福山市三吉居住の、三河の「八」
こと、「三八」と『福山史料』にあり。『八ノ者秀吉』流に言うと
「八の者」「鉢の者」で、ルーツは「野の者」「谷の者」と同じで
エミシ末裔の「別所の者」となりますが。

おミヨ - 2001/08/02(木) 19:06<

つづく

「東京人」8月号
銭湯特集「お風呂屋さんに行こう」
「つげ義春を旅する」高野慎三 680円 の本の紹介
「架空の街、渋谷に隠された闇」ナドナド
面白い話題のっています。

ユーロススペース映画館は地味でいい映画を上映、よく行きました。

渋谷「しぶたに」新宿「あらやど」なんて読んでしまうととてつもない田舎のように・・。

ふぁる - 2001/08/02(木) 13:47<

どうなんだろうねぇ

テレビはノーチェックだった。

ここのところ戦国武将系やら、古日本の豪族の話題が出ておるようですが、サンカに連なるものとして
扱うのは、「お里が知れる」ような......。まあ、こう言うこともあるんだよ程度に、初心者に提示する
話題としてはよいかなと思います。
俗の、生活史、普通の歴史があまりにも知られなさ過ぎているので、何度も確認の意味をこめていろんな話題を
提示していきたいものです。

サンカ認識:
 以下はサンカには入らない。
 渡来・逃散 = 世間の枠から外れた
 職業集団(宗教含む) = 世間と意識して距離を置く

 上記で分別が難しく専門職の人にやってもらいたいのが「職業集団」とサンカの違いですね。

 生活圏を意図して常民と別けて棲んでいたのは「職業集団」ですが、「渡来・逃散」は、いられなくなった、
 逃げた、受け入れられない等で分かれているだけで、常民に寄生して生活していたのは確かな事です。
 この辺がサンカを扱う上で難しいところですね。
 (人類学やら社会学やら。あんまりやると同和で食べてる輩の網にかかってしまう。同和右翼というのもいるし)

 




おユキ - 2001/08/02(木) 12:54<

暑中お見舞い申し上げます

おミヨさん こんにちわ。
ここのところの猛暑で、私は少し夏ばて気味です。
名前がお雪なので夏には弱いみたい。

やぞーさんの放送、私も見たかったなー
でもまた何かで見れる気もしてまーす

おミヨ - 2001/08/02(木) 11:42<
ヤナさん 
有り難うございます。ビデオ楽しみにしています。
我らのヤゾーも評判良かったし、早く観たい。

あかねさんこんにちわー
ちよっと言葉がたりなかってんけど私は神戸生まれやねん。
祖母もよう「めんどいなぁー」ってゆうてたわ
それとなにかにつけて私の事を「おなごのくせに」・・・・耳にタコ。
明石、姫路、加古川につながりがおりよるよー。
産鉄民について有り難うございます。
よーくご存知ですね。また色々かいてくださいね。楽しみーー。

サクラさんお久し振り、お元気そうで良かった。
紀和さんの「聖鬼伝」読みました。舞台は奈良の吉野郡k村八神
面白かったです。「月信仰」も面白そうですね。

菓子屋が忍び?
風月堂とか舟橋屋もそうらしいです。

丹波も忍者の本拠地で、伊賀、甲賀と異なる系統らしい。

おユキちゃん元気にしているかなーー。。

ピンクのトカゲ - 2001/08/02(木) 10:28<

多分関係ないです。

とんちんかん小僧さん
徳久&徳利とピンクのトカゲ一族は、多分関係ないと思います。
詳しく説明するには、固有名詞(××組等)が必要なため、メールします。

とんちんかん小僧 - 2001/08/02(木) 02:07<

陰陽忍軍歌 (3)

ピンクのトカゲさん
西国の徳岡一族と三河の○兵衛=ピンクのトカゲ一族とは何らかの繋がりがあった
のでしょうか? もっと詳しく教えてもらえないでしょうか。


 美作(みまさか)国の作東(さくとう)、白水川の上流に「奥」という“出作り小屋”
のかたまりのような小さな集落がある。
 白水川は南の八塔寺山を水源とし、美作と播磨との国境沿いに北流し、英田(あいだ)
郡の北辺を西流して吉野川と合したあと、吉井川の本流に注いでいる。
 徳岡久兵衛は、その白水川上流に眼をつけた。地の利がよい。赤松政範(まさのり)の
居城である上月城まで、山越えに東へ一直線に走って二里少し。また南の八塔寺村(八塔
寺山南麓)まで白水川に沿った小径を上流へ上がりつめて二里少々。
 白水川を一里ほど下ると作州本街道の土居に出、街道を東へ十町ばかり上がると播作国境
の万ノ峠(まんのたい)に達する。徳岡久兵衛は忍び組子二十人を率いて、白水川の奥の
集落の南背後にそびえ立つ滝山に入った。山頂には十一面観音と不動明王とを祀るお堂が建
っており、山の西の谷には白水川が流れ、男滝・女滝の飛瀑をつくっていた。
 御滝信仰の修験行者の山である。
 毛利軍の忍びが密に暗躍しているころ、西播地方で一六万石を領し、「西播磨殿」と呼ばれ
た上月城主赤松政範もまた毛利と同盟して、反織田の旗色を鮮明にした。
 天正五年[1577]十月末のことである。 秀吉はこれより前に、木村源蔵と山中鹿介(しかの
すけ)を使者として赤松政範に信長の教書と秀吉自身の添書を与えて恭順を勧告したが、政範
は即答を避けた。秀吉は、手抱えの忍者木陰(このかげ)弥右衛門〔次回以降に〕の報告により、
政範が宇喜多直家の仲介でとっくに毛利と内密に同盟を約していたことを知った。
 秀吉の当面の敵は赤松政範と決まった。  −つづく。   

ヤゾ− - 2001/08/02(木) 00:05<

テレビの反響

何年も会っていない友達から、
たまたまテレビを観ていたら、いきなり僕が出てきたので、
思わず口に含んでいたビールを吹き出してしまい、
嫁さんに呵られたと電話がかかってきました。
いきなり知っている奴が、なんの前触れもなくテレビに写ると驚くみたいです。
ちなみに実際の僕より鋭い顔をして写っていたと言われましたが、
普段、ニヤけた阿呆面ですので、良かったかも知れません。

>俺も子供時分から水かぶってるから丈夫いよ。

僕も、真冬に水を浴びるということを数年間続けたことがありましたよ。
冷たいと思うのは最初のうちだけで、
後は身体の中から熱気が出てきて、
とても爽やかな気持ちになった覚えがあります。
その時分は風邪もひかなかった気がします。

>太郎の上に雪降り積む 二郎の上に雪降り積む...

今日も暑かったので、
早く、屋根に雪が降り積むようにならないかと真剣に思いました。
それにしてもなんでこんなに暑い日が続くのでしょうね。

サクラ - 2001/08/01(水) 23:19<

思い出しました..

太郎の上に雪降り積む   二郎の上に雪降り積む...

月信仰グループ・星信仰グループ・太陽信仰グループにわかれ筑波の笑地区における虐殺事件が起き、
平蒋門。河童属の水神信仰。ヒョットコの火崇拝信仰グループによって、人々に癒しと活力を与える
「月のしずく」という名の石の争奪戦が始まる...

わたしの大好きな紀和鏡さんの本の中、「月のしづく」という石は、サンカらしきおじいさん達の
集まる銭湯の壁に埋め込まれていました..
まるで、ピンクのトカゲさんのおじいさん達のよう...
この物語も本当かしらと思ってしまう。隠された部分は本当の事なのかも???

連脈もなく、紀和さんのほんが読みたくなった宵です!

PS・やぞーさんのビデオは求めれば与えられん...回覧できっと...希望者に回るよ!!!



NA-NI - 2001/08/01(水) 19:23<

東北におけるエミシの末裔

話題から外れますが、エミシの末裔について触れておきます。

>東北エミシの末裔は、中央だけでなく北東北以南の全国に、別所の民とし
て存在します。
>江戸期発生説は偽りでしょう。
>東北大学ではエミシ・俘囚を研究してる方がいますが、俘囚→別所・院
内・産所→
>などを研究したのは民間学者の菊池山哉くらいです。

エミシの末裔は別所だけではなく、東北各地にもいます。近年も移住して日本津々浦々
(いえ、世界かも?)いると思います。
別所の方の社会的状況や歴史はわかりませんが、東北におけるエミシは和系化し、
アイデンティティとしてのエミシはほとんどの場合、「過去」としてみなされますが、
実は曖昧ながらあながちそうでもないようです。ネット上でもエミシがチラホラいるようです。

エミシはアイヌ民族との関わりが密接であったようです(青森以北はアイヌ民族の土地)。
言語もアイヌ語に近似していたと考えられ、地名やマタギの山言葉、東北各地の方言に
アイヌ語と同じ、または近い言葉が散見されます。

ところで、エミシの実態としてのエミシ論というのがあり、決着がついていないのですが、
私はいわゆる特定説というのに異議を覚えます。
当時の「エミシ」集団という集団の概念が自意識、またはエミシの視座でどうであったか
という点にはほとんど着目されていませんし、
今ある「民族」概念でもって同じように捕らえようとしてもそこに盲点があると思います。

現在のエミシの末裔としてのアイデンティティについては東北の歴史学者や民俗学者が言及していますが、
まだまだサワリの部分でしかないように感じます。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 17:33<

徳利と徳久

とんちんかん小僧さん
徳利と徳久ですか。曾祖父までは、三河の○兵衛を名乗り、略して『三○』。
祖父が香具師を辞めて、曾祖父の子分の三河の×兵衛が継いで、『三×』を名乗っておりました。
ヤゾー
祖父の仲間達も風呂行って、冬でも皆水かぶってたよ。
俺も子供時分から水かぶってるから丈夫いよ。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 17:23<

徳利と徳久

とんちんかん小僧さん

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/01(水) 15:51<

サンカはいるの?

 のっこんさん。これにはサンカとは何者かを頭に置かねばなりません。
さし当り柳田國男・三角寛・八切止夫などにあります。
>三角寛が文学賞?を貰ったかとかで激しく腹立ちの方が「研究でも何で
もないよな、作り話だ!」とか。でも作り話なら、文学賞ぴったりです。
三角寛の作品?研究?のどっち?「研究・・・作り話」、実はこれを証明
する事は難しいのです。その方は本当に大学教授になtta
?
?三角寛の研究がどの程度、あるいはどのように「作り話」であったかは
歴史民俗学研究会で調査・研究しているようです。「権威も何もないよな」
というような精神の持ち主には、権威自体を否定するようなサンカの生き
方はまず理解不能でしょう。このような日本人の精神構造がなぜできたの
かは野史研究会の課題でもあります。
 サンカはいるのか?極少数いるそうです。圧倒的多数のサンカ系は今や
都会や地方都市の公務員・サラリーマンです。最近私に「サンカの歴史的
実在を証明しろ!」と迫る方がいましたので、まず「ご本人を紹介しまし
ょうか?」、私のHPの古文書をご覧下されと申したら尻尾をお巻きになり
ました。この学者肌の方は、真実などどうでもよいのでしょうネ。
最近読まれてる『朝日と読売の火ダルマ時代』『殺された三人の天皇』など
にはサンカという賎民から「頭を使い」「社会の底辺からよじ登った」社会
上層部のサンカ系の「大活躍」が描かれています。ただし状況証拠だけで、
学者が主張するように証明は、現在のところ、出来ません。安全にできるな
ら社会学が外国からの輸入物で論文を書かなくてもいい位、種があります。
 popoさん。
 東北エミシの末裔は、中央だけでなく北東北以南の全国に、別所の民とし
て存在します。これは山民だけではありません。これに野史研究会は取り組
んでいます。どこにでもある薬師・エビス・荒神や地名などを使い検証しつ
つあります。この中からサンカや鉢屋は出たのは間違いないようです。
一部は海彦・山彦の時代に遡るかもしれません。江戸期発生説は偽りでしょ
う。東北大学ではエミシ・俘囚を研究してる方がいますが、俘囚→別所・院
内・産所→などを研究したのは民間学者の菊池山哉くらいです。

とんちんかん小僧 - 2001/08/01(水) 15:16<

陰陽忍軍歌 (2)

 副題:吉川の“徳久”と秀吉の“木陰”

 これは、戦国の世で表裏で活躍した忍び者の史実でもあろうか。表舞台は…織田信長の
中国征伐軍の羽柴筑前守秀吉軍とそれを阻む毛利家〈吉川軍・小早川軍〉と同盟軍〈宇喜多
軍・赤松軍〉との播磨上月城での攻防である。だが、ここでは忍び者を表に出すゆえに
分かりにくい点もありましょうが御勘弁なされい。

☆毛利元就の遺言“播磨つぶし”

 徳利老人――。
 徳岡利兵衛のことを略称して徳利という。徳久は、この徳利の従弟徳岡貫兵衛の子だ
が、徳利老人は、徳久から見てはるかに高い山の頂点に立つ偉大な忍者であった。
 年齢は八十歳に近い。
 毛利元就に仕えた忍役で、元亀二年[1571]七十三歳で元就が死んでから七年経った今
も、毛利家における徳利老人の存在は大きい。
 元就の死後、嫡子毛利大膳大夫降元に仕えて毛利家の“陰の忍役”の総帥を勤めてい
るが、それを知る人は毛利降元と徳久たちの他に降元の弟吉川元春、小早川隆景など
極く少数の人たちに限られていた。
 徳利老人の表芸は、医師であり茶人であり、花鳥山水仏画をよくする絵師でもあった。
 世間の人たちは、見るからに無欲恬淡、飄々(ひょうひょう)とした徳利老人に庶民
的な気易さを覚え、「トクリさん」などと親しく呼んだ。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 07:32<

見れんかった。残念

仕事で見れんかった。ところでテレビ愛知でもやったのかな?やってなけりゃ諦めつくけど...

もんむー - 2001/08/01(水) 06:35<

箕ました

利田さん、ヤゾーさん、おはようございます
>>「戒厳令の夜」ビデオで見たけど、超ダサク。見ないほうが良いよ。

そういえばヤゾーさんもそんなこと言ってまたね。個人的には「戒厳令の夜」
はサンカを知るきっかけになったので思い入れがあるんですけどね。
ダサクですか。残念です。

きのうのニュース見ました。放映されないと言っていたヤゾーさんと山小屋が
しっかり映ってるじゃありませんか、びっくりしました。ネット上でしかやり
とりのない人がいきなりテレビに映っているとなんかドキドキしますね。けど
たいへん参考になりました。

でわでわ


利田 - 2001/08/01(水) 01:29<

始めまして、ではない

>モンムーさん
「戒厳令の夜」ビデオで見たけど、超ダサク。見ないほうが良いよ。

今日、釣りに行っててテレビみそこねた!!
面白かった?
このHPが紹介された様だけど、ヤゾーの顔も出たのかな?

アクセスが増えて、ヤゾーに素敵な嫁さんが見つかることを祈ってるよ。

ヤゾ− - 2001/08/01(水) 00:05<

下北山村史

カメツリ(正確にはカメツと呼び、サンカのこと)たちが一番よく泊まったのは、
池原辺りでは下谷口や大瀬デアイ(東芝川の合流点)あたりで、サトには余りいなかった。
下谷口でカメツリが子を生んだ時、下谷店の老女が親切に家からタライやお湯を持って行ってやったら、
あとで自分たちが手を洗うからそこに置いといてくれと言って、赤ん坊には川の水をアミセた。
渡り者暮しだから湯を使えば癖になって風邪を引き易くなるからというのがその理由だった。

村の医者が難産で苦しんでいるカメツリの女を診てやって、薬や着物を恵んでやったら涙を流して喜んで、
それからはよくお礼にウナギなどを持って来たという美しい話しが残っている。

またカメツの親子が、大八車を買って馬に曳かせ、ヤエンで川口に渡した荷を桑原から池峯を超えて池原へ運ぶ仕事を始めて、
相当儲けて上郷渡に家を建てて住み着いたが、地元の人たちも真似をして競争になったので、
見切りをつけて家を売り、名古屋へ出ていったが、それでもやはり池原は懐かしかったのか、
それからも何度か遊びにきたこともあるなどの話しが載っています。

これらの昔話しから、村の人たちがカメツリ(サンカ)の人たちとかなり親しく接してしたことと、
もちろん、一定の距離はおいていたのでしょうが、河原でのお産や、難産の話しなどから、
困っている時には、かなり親身になって世話をしていたことが分ります。
素晴らしきかな下北山村です。

この秋に出版される沖浦和光先生の『幻の漂泊民・サンカ』には、
この下北山村からの話しが詳しく載っているそうです。

みなさん、はじめまして。
今後とも、よろしくお願いします。

ヤナギムシ - 2001/07/31(火) 22:40<

けけけけけ・・

あははははは・・アマゴ食べれます??
  けけけけ・・おいしいですよ・・

        けけけけけけ

    なすび・・夏は、なすび・でんな
   焼きナス・とか・・しし唐とかヒラテンといしょに、甘辛く焚いたのんとか
    ほんま、おいしいよね
     日本酒の冷酒で一杯
      ビールで一杯もええよね

        冷奴もまたええやん


   あーーーーぁ、恥ずかし・・
      これで、もう表歩かれへんな

         こもって・・酒でものまんと・・

              

      ええ男に、映ってましたよ・
              録画OK       けけけけけ・・ヤナギムシでした

popo - 2001/07/31(火) 21:25<

サンカの出自

サンカって坂上田村麻呂に滅ぼされた東北蝦夷の末裔がインダス人であった
ジプシーのように流れに流れて中央のほうに来たのではないのですか

KAJI - 2001/07/31(火) 21:09<

新たな世界

テレビからこちらのホームページへきました。
サンカという存在を知り驚いています。
この日本にそのような人達が居たことは私にとっては新鮮な発見でした。
サンカのページを読ませて頂いきましたが、
なにやら只の少数弱者ではなく、
この国にとってはなにか大きな存在であったような感じを受けました。
これを機に少し勉強してみようと思います。

ミク - 2001/07/31(火) 19:32<

癒されるものを感じました

私、偶然にテレビでこちらのHPの事をしりました。
でもアドレスを忘れてしまって、サンカと熊野で検索してようやく来ることができました。サンカの事は全然知りませんでした。後でゆっくり読ませて頂きます。動物との触合いを記録したページを見させていただきましたが素晴らしいです。とても癒されました。これからも動物との触合いをページに書いて下さい。楽しみにしてまいす。

のっこん - 2001/07/31(火) 18:58<

雑談で〜す

テレビ番組で拝見。Googleで検索。

高校時代に、サンカ研究で三角寛がなにかの文学賞を貰ったと授業中に怒りまくっている先生がいました。(研究でもなんでもない、つくり話だと言うのがその根拠でした)

「な!そう思うだろう。賞の権威もなにもないよな!」といわれて当時はサンカも三角寛も知らずその勢いに呆然としてましたが、しばらくして立正大学に呼ばれて行ってしまいました。

池袋に人生座と文芸座という映画館があってそれが三角寛経営だと聞いていました。
3本上映で300円位でカネのない学生身分にはサイコーの贅沢でした。東映の任侠シリーズで高倉健さんを知ったのもこの頃です。

四月に上北山、下北山村や熊野古道などに行って来たばかりでしたので楽しく拝見しました。
目的が違ったのでサンカを意識して行ったわけではありませんでしたが。

サンカはどのみちアウトサイダーですから記録文書が残っていないでしょうし、三角寛氏のような想像力豊かな人に翻弄されてしまうのもしかたのないことでしょう。

羨ましい生き方です。
高度管理社会からのなんとか、いうのも陳腐ですが、むしろ自然と一体化とか共生とかいうのが最近のはやりでしょうか。

やまだ - 2001/07/31(火) 18:30<

すごいです!

自分もニュース番組の中でここのHPの存在を知ってやってきました。
ざっと読んだだけですが、とても共鳴できるものがあり、
また、その感性と実行力には感服いたしました。
羨ましい生き方だと思います。
これからもちょくちょく見させて頂きます。

鈴音 - 2001/07/31(火) 17:49<

はじめまして。

みなさん、こんにちは。はじめまして。
今日、たまたま昼から仕事が休みで、たまたまテレビをつけていて、このHPに出会いました。
ヤゾーさんとは、多分、車で1時間ぐらいのところに私も住んでいます。近いですよ、きっと。
でも、ぜんぜん知りませんでした。
今からゆっくりHPを見させていただきます。

tomo - 2001/07/31(火) 17:49<

ニュースみました!

こんにちは、ニュースを観てたら、サンカのことを特集していました。
そこに、アドレスがかいてあったので早速訪ねてみました。
おばあさんが50年以上大事保管していた篭を譲っていただいたなんて、よかったですね。
これからも、ちょくちょく見にうかがいますので楽しみにしています。

SUGI - 2001/07/31(火) 17:45<

こんにちは

みなさんこんにちは、テレビでこのHPの存在を知り来ました。
すごく面白そうな生き方ですね。同時に大変そうでもありますが。

min-min - 2001/07/31(火) 15:50<

12chやるみたいですね。

やぞーさん、みなさん、やっぱりやるみたいですね、本日pm5:00から。

いわく『現代によみがえる“山の民”の謎・・・なぜ今ブームに?』と新聞の番組欄
に載ってました。ところで今ブームなんですかぁ???

min-min@横浜

とんちんかん小僧 - 2001/07/31(火) 15:15<

RE 菓子屋が忍び?

 ピンクのトカゲさん
最新のBIGニュースですね。はたして、繋がりがあるのかどうかというのは分からない
ですけど、作家の名和弓雄氏は忍器、忍具の蒐集を五十年余やっている中で旧幕時代の
お城御用といわれる由緒のある老舗の菓子店から、撒きびしその他の忍器を買い求めた
ことが、あちこちで体験ずみだそうです。

きょうかい - 2001/07/31(火) 12:10<

渋谷、千駄ヶ谷

ぽんさん、こんにちは・・
渋谷区在住だそうですね。いろいろ情報教えてください。
226事件の処刑は、確か渋谷公会堂のところだったと思います。
幽霊話も好きですので、もっと知りたいですねえ・・
 千駄ヶ谷もおもしろそうですね。あの有名なスタジオもあるし
すぐそばは、「霞」ヶ丘団地ですね。観音橋もあるし、熊野神社もあるし
鎌倉古道もあるし、キラー通りなんて命名も偶然とはいえ意味なんか
ありそうです。 
 よろしくお願いいたします。

Dongly - 2001/07/31(火) 11:24<

数の数え方

ピンクのトカゲさん。おはようございます。
母方祖父は箕作・六部の姿でやってきたサンカを、なぜか嫌ってたそうです。
その祖父はある村の長田出身、祖先は野鍛冶の筈で、数字を「ひーふーみー
よーいつー」と数えてました。(隣を「かみ」と呼び、その家には鍛冶屋文
書があるそうです、今度見せて貰います)。八切止夫は原住民サンカの数え
方といいます。
また農地改革で最良の土地を小作に譲る事になりましたが、この小作人の家は
昔茅葺で、家の出入口は北で、一ヶ所だったといいます。セブリテントと同じ
く蝮が侵入しないためにテント入口は南にしない思想「ふじなみ」といえます。
また別所作りの家も曲り家も北出入り口が特徴です。この家の竃がある部屋は
母屋と別棟か否か、竃室と母屋は別出入口か否か、は聞いておりません。
 母屋と離れた別棟に、風呂と共に竃を置いてる家は見た事あります。
 祖父宅の「ねべや」は寝室の意味と教育委員会勤め校長あがりの叔父は嘘を
言ってましたが、本当は、蔵の番人を兼ねた「家付き小作人」の部屋でした。
この家付小作人が朝から野良仕事で、曽祖父は朝から茶碗酒だったそうです。
 また祖父は30年前「蛙や泥鰌がいなくなるような農薬は人間にもいけない」
といって早速農薬をやめ、1〜2年後は米の収量が落ちたそうですが、3年目に
元に戻った上に丈夫な稲になったといってました。非農耕系の直感でしょうか。

ピンクのトカゲ - 2001/07/31(火) 07:07<

祖父のこと

掲示板呼び水になっております。
少しずつ忘れかけていた記憶蘇ってきております。
私が学校に上がる以前、五・六軒先の銭湯に祖父と毎日行っておりました。
時間は、決まって、四時ぐらい 祖父と同年代の五・六人がいつものメンバーでした。
他の人の名前は思い出せませんが、鋳掛け屋の『やっちゃん』が祖父をヤゾーと呼んでいたのを覚えております。あのときの会話は、ほぼ符牒のオンパレードといったものだったと思います。祖父の仲間達が使っていた言葉を聞くままに覚え、よそで使って意味が通じなくて、戸惑ったこともしばしば、でも、聞けばわかるんですが、40年近く前のこと思い出せません。
みな魚取には長けていたようで、面白おかしく、昔を語り合っていたことを思い出します。
みな家に訪ねてきたことはなく、四時過ぎの銭湯が会合の場所であったのでは?
とんちんかん小僧さん
参考になるかどうか解りませんが、戦後、祖父は、かき氷、アイスクリーム等を作っていたようですが、砂糖は、なにか別のルートがあったようで安く入っていたようです。
香具師についても砂糖は、安く入っていたのを大人になってから、祖父に聞いています。
例の菓子屋の話と結びつくのでは?

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/07/31(火) 03:19<

遅くから失礼

あかねさん。
「刀鍛冶は刀だけ作ればいいが、わし等は何でも作らねば」と野鍛冶筋の方はプライ
ドを持ったようです。私の母方は野鍛冶だったような証拠と山の中腹の黄幡(おうば
ん)池の傍に黄幡社を祀り、正月には餅を供えてました。赤松氏のルーツは福島県喜
多方市にある旧家の宍戸家に遡るとか。赤松は昼間の戦闘に負け、勝ったのは夜戦だ
けだった「石灰族」と、末裔は嘆いていました。もちろん別所の者の系譜です。
ピンクのトカゲさん。
人に関する方言だけは集めています。霧を「なご」と呼ぶのは神奈川津久井郡・山梨・
静岡・北設楽郡・下伊那郡・北魚沼郡と方言辞典にあります。もっと地名が絞れる
なら歴史や民俗の解明に役立つのですが。人的呼称では「家付き下男下女。作男」の
意味で、これに関連の地名はあります。役に立ちませんね。
ぽんさん。
渋谷の「道玄坂」。道玄は「大工の世話人」かもしれません。昔の雰囲気が残るなら
ば慶安(人身売買・職業紹介人で多くは番多の兼業か)が世話人をやってたようです
ね。大木戸さんからの聞取りですが「大木戸」は中世からある往還の番人の呼称のよ
うです。江戸期にも木戸番は多かったようです。後の焼芋屋・散髪屋・文具屋などの
ルーツです。「大木戸」の実物は、上野忍す池傍の下町資料館(間違ってるかも)に
再現されています。大店のある表通りに設置されたゲート(格子戸)で、朝6時に開
け、夕方6時に閉めたとか。閉まってる時出入りする者を「鼠」「鼠小僧」と呼んで
たようです。もちろん「袖の下」は時間制限フリーの決め手であったと思います。

とんちんかん小僧 - 2001/07/31(火) 01:45<

陰陽忍軍歌 (1)

 徳岡久兵衛(とくおかきゅうべえ) 【生没年不詳】

☆吉川氏に仕えた西国の忍び

 流派は明確には不明だが、百済の遁甲(とんこう)術なる忍びの術を使ったという。
 徳岡一族は、西国一の勢力を誇った大内氏と遠祖が同じという。推古朝時代[592−
628]に百済聖明王の第三子琳聖(りんしょう)太子が周防国(山口県)に渡来し、
多々良の姓を賜ったと伝えられる。ただし、大内氏も平安末期[1180頃]に至るまで
の家系は不詳である。
 安芸(広島県)の毛利元就の陰謀、策略によって、大内氏が滅び、周防・長門(山
口県)が毛利氏の支配になったのは弘治三年[1557]。その頃、徳岡一族は毛利氏に仕
える。一族の長である徳岡利兵衛〔次回以降に〕は、元就の忍役(しのびやく)として
信頼を得た。元就死後も嫡子降元の陰の総帥役。
 徳岡久兵衛は利兵衛の従弟貫兵衛の子である。吉川家の忍役。利兵衛が、知る人少な
い陰としての存在であったのに対し、久兵衛は忍役百人組の組頭で“徳久”といわれた
“陽”の忍役の役割を担った。配下を手足のごとく動かした久兵衛には、吉川家の当主
元長(元就の孫)の幕僚で、“お面杉原”と囁かれる杉原盛重という不気味な存在があ
った。その命で織田軍と毛利勢との上月(こうづき)城をめぐる攻防に暗躍した久兵衛
は、鉢屋の手にかかり討死した。

 今回は、忍び者シリーズ史上最も長くて重要なものになりそうです。けれど、重複する
個所が多くなるかもしれないですけど暖かい目で見て、読んで下さい。お願いします。

ぽん - 2001/07/31(火) 01:25<

前言の訂正

ちょっと、訂正です。まず、前半。
シブ色を含んでいて、シブヤ川と呼ばれていた。です。
それと、
四谷の大木戸とかがそうじゃないかと聞いた・・・に訂正します。

やぞー - 2001/07/31(火) 01:24<

みなさん こんばんわ

>私は日本人には皆、多かれ少なかれ、過去にサンカの血が入ってるように思います。

アカネさん、丁寧なお返事ありがとうございます。
そうですね。極論を言えば、サンカこそが本来の日本人って気がすることがあります。
それくらいサンカというのは僕たちにとって魅力的な存在なんですね。

>パラボラを買わねばなりません。ショックです。

もんむーさんの場合はまだ救われます。
僕の場合はアンテナを建てようが、何をしてもテレビは写りません。
トホホホ。

ピンクのトカゲ さん、祖父さんのお話を待ってました。
どんな言葉を使っていたのかなんてとても貴重な話しだと思います。

ポンさん、お久しぶりでした。
渋谷の興味深いお話を聞かせて頂きまして、ありがとうございます。
また来てくださいね。

サクラさん、元気そうでなによりでした。

ぽん - 2001/07/31(火) 01:00<

ちょっと、それてるかも。渋谷の話

ご無沙汰しております。
渋谷の話が出ているではないですか。(いつも、反応が遅く、しかも単発登場ですみません)
渋谷区民のぽんに書き込みをさせてください。
私の持っている「東京地名考」(朝日文庫)に寄ると、渋谷の地名の由来がいくつか出ています。
まず、渋谷という名前の有力者が住んでいたから(渋谷氏といっても、時代も素性も違うのがいくつか候補に上がっています)というもの、
それから「この地を流れる川の水が赤錆色の鉄分をシブ色でシブヤ川と呼ばれていたこと、あるいは塩谷の里がなまったものとか言い伝えられるが、おそらく、渋谷川流域の低地がしぼんだ谷あいであったので、それがシブヤに転じたものであったであろう」と
というのが出ています。(猿楽町、蜂山町の地名の由来は出ていない)
わあ、でた赤錆色!!。こっちがいいなあ。
渋谷は谷が多いから、別所ぽい(?)ところは多いかも。
たとえば、千駄ヶ谷とかも、どうでしょう。
前の話と関係なく、しかもうろ覚えなんですが、名曲喫茶を経営する古老にきいたのですが、今、NHKがあるところは、昔は原っぱで、暗く、子供のころは恐ろしくて行けなかったそうです。2.26事件後など特に。(処刑された場所なんですか?)近くの大向小学校は今でも時々軍靴が聞こえてくると、お化けスポットととして一部で有名です。(ぶるる。涼しくなりました?)
私は、道玄坂の上のほうは、すごく妖しい雰囲気というかやくざな雰囲気で、私は身震いがするほど好きな場所です。(百軒店の通りのあたりとか)
(ところで、その渋谷のユーロススペースという映画館で、中上健二が故郷の路地を撮ったフィルムを基にした映画をやっていますよ。)
以前、こちらにも書き込みがありましたが、区は違いますが、霞町(現西麻布)とか四谷の大木戸とかがそうだったと聞いたことがあります。
身近にも、結構、ありますよね。
上記のような場所では、もちろん差別もないし、気にしてる人も少なく、古い住民もしがらみもありません。
ただ、都心のわりに、交通が不便だったり、場の雰囲気がちょっと違ってたりして、土地に残された記憶みたいなものは感じます。


ピンクのトカゲ - 2001/07/31(火) 00:47<

みなさんにお尋ね。

祖父が霧のことを『ナゴ』、田んぼの方を『トオモ』とっていたのを思い出しました。近所の年寄りに確認したところ、知らないとのことで方言ではないようです。ただ、深田を『ドンボウ』とは、このあたりで入っていましたが、『トオモ』とは、ちょっとニュアンスが違います。
サンカ関係の資料に出ていた記憶はないのですが、どなたかご存知ありませんか?
Donglyさん、野史の方でそんなの聞いたことありませんか?

あかね - 2001/07/30(月) 23:19<

遅レスですんません

↓産鉄の話で、銅は融解温度が高く、道具も大掛かりだから、鋳師の定着は最もかも。というのが抜けて
 ましたm(__)m。鉄・銅でも鋳鍋は流通しないと造り続けられませんもんね。あと、スサノウは大国主・
 えびす(九頭龍さんも)でもあり、藤原鎌足は鹿島市出身だというのもヌケです。

Donglyさん
初めまして。不勉強でいつも勉強させていただいてます。今後もよろしくご教示お願い致します。

>非金属製品だけでも100以上はあるでしょうか。
 そうですね。実家にも農家ではないものの、今でも色々残ってます。お書きの品々は私にとって
馴染み深い物です。使った事はないですが。それにしても細工物は今はお高い…

>サンカ鍛冶の使う鋼原料の地は…
 勉強不足で分からないですm(__)m。何か、竹細工の産地と重なってる気が…。サンカ縁の地、よく出向
いた地の鋼であり、在地と関わりを持ってる所のものだとは思うンですが。私としては支配側が重視し、
山岳武士が跋扈した地でもあるあたり、関わりが気になったりします。

>石工・大工・鍛冶屋グループの職業神での海人族との違いはフイゴ祭りにあるようですが。
 これも勉強不足ですm(__)m。ちょっと考えてみます。フイゴの北方系・南方系、発達変遷、時代による
地域差ぐらいしか、もう一つ、把握できてません。祭りの根本的な何か違うのですね。またご教授下さい。

>兵庫奥丹後半島(竹野郡・中郡・ヨサ郡など)で近年に古代の大製鉄跡が発見され調査中とかですが、
 海砂鉄も多く、古代砂鉄と「別所」砂鉄が重複しているかもしれません。
 製鉄一環工場ですね。場所柄、重複してるだろうなと思います。読まれたら是非、お教え下さいませ。

>赤松氏の本願地は千種鉄で有名な宍粟郡千種町鷹巣別所と聞いていますが。
 確かにそう言われてるのですが、大河原氏系統だとする説もあります。初めて知った時は驚きましたが
説の根拠を忘れましたので、詳しい方に教えてもらうようにします。ごめんなさい。いずれにしても赤松
円心の3代前?が千種に移る、配流?される以前の事ははっきりしないようです。宍粟に来た当時の
赤松は、文書の表記の仕方では、地頭クラスより下だった事は確かだそうです。
 それと、赤松は大鉱山のある地を領したにも関わらず、鉱山経営にあまり力を入れた様子がないらしい
のも不思議。これって赤松は元来、鉱物採掘加工等に従事していた山民を内に含んでいた山岳武士だった
から、敢えて鉱山支配を強化する必要がなかったためのような気がしす。つまり、山民ルート(本州を山
だけ歩いて移動できる相互補助のような世界)と、深く繋がっていたからだろうなと。
だから13歳にして円心は、兵を率いて南朝側につき、吉野の山で活躍できたのかな、とも思います。
 更に水軍は関東・東国?方面へも移動してたそうなので、その意味でも大河原氏だったら興味深いです。
 また千種鉄の地が戦力増強に重要なのは無論ですが、塩も食糧の他に、鉱物加工の仕上げ等や馬の飼育
等に欠かせないので、播磨に来た意味もわかる気がします。山民・海民が融合してるのでしょうね。

おミヨさん
 こちらこそ、いつも楽しいお話で、学ばせていただいてます。サンカの知識、私、ホントに少ないです。
産鉄民の話が一緒にできて、嬉しくて、つい書きこんじゃいました。
 篠山なんかぁ。嬉しいなぁ。篠山、親戚あるから、たんまに行くんや。実家の気候は篠山に、ほんま、
よう似とんねん。そっくりなんよ。播磨弁は語尾が地域によって違うんやけど、特殊な語尾入れんと
書いとったら関西弁とかわらんな。ほんで東播磨は、篠山とも言葉、だいぶん似てるんやないかな。
面倒な事を、めんどいなぁ、言うし〜。お粗末でしたぁ(^o^)

ピンクのトカゲ - 2001/07/30(月) 20:08<

羨ましいですか?

豊橋の劇場で見たけど、あのとき、麻雀放浪記かなんかと二本だてだったけど、麻雀放浪記上映してるときは、結構広い映画館に五・六人ひといたけど、『瀬振り物語』始まったら貸切で見れたからね。

もんむー <http://www.nihon-eiga.com/> - 2001/07/30(月) 20:06<

戒厳令の夜

衛生放送の日本映画専門チャンネルで8月24日から25日にかけて
五木寛之オールナイトと題して五木氏の映画化作品、5作品を連続
で放送するそうです。

その中に「戒厳令の夜」が含まれているので是非見たいのですが、
パラボラを買わねばなりません。ショックです。

でわでわ

あかね - 2001/07/30(月) 19:38<

ことらこそ宜しくお願いしますm(__)m

やぞーさん
 TV、自宅で仕事する事が多いンで見ようと思ってます。ワクワク

>サンカと産鉄民、また野鍛冶、鋳物師って、どこか同じ匂いみたいなものを感じていました。
 私は日本人には皆、多かれ少なかれ、過去にサンカの血が入ってるように思います。分かりませんが、
サンカとはその暮らしを選び取り続けてその文化を誇る人達、「状態を表す」言葉だと思います。
それは社会システムからは逸脱するもので、だからまだフタをされてる部分が多いンでしょうね。
 鍛冶・鋳物師は、武器や大構造物・美術品を造るために時の権力が押さえる必要があり、職人にとっても
その腕で安定した生活・出世を得る近道(特に刀鍛冶・忌鍛冶や茶釜の鋳物師)でした。鋳師なら、後に
江戸幕府公認・公家系の真継家のシステム下に入り、惣官鋳師や由緒鋳師となって優れた作品を後世に
残す…。それは出世だけでなく、定着当初は、良い品を安定した状況で造りたい気持も職人側にあったの
ではと思います。つまり野鍛冶では移動道具故に、より細工の細かな品は造りづらく、鋳物師はシステム
下に入らないと、大規模な作品造りに携わりにくかったから。などの理由もあると思うのです。
 といっても無論、野鍛冶の職業意識が低いわけではありません。野鍛冶は浜(川も)鍛冶・農鍛冶も同時に
行った事が多かったそうで、この事は暮しに密着した道具をそれらが手に入りづらい地域でも供給する
役割を担い、誇りもあったでしょうから、要は何を造りたいか、によっても職・生活形態を選び始めた
場合もある気がするのです。まぁ、そんな悠長なものではなかったかもしれませんが。
 定着の鍛冶屋も、野鍛冶にも色んな情報が集り易く、特に鍛冶屋はそれ故に地域で力を持つ事も多か
ったそうです。この辺り、職性だけでなく、鍛冶が中世に諜報活動へ携わったらしい、血の伝統のような
ものもあるのかなぁ、と感じます。そう言えば、石川五右衛門にも鍛冶・忍者説がありますね。
五右衛門や伊右衛門(お岩さんの)等は、江戸期、マエビキ鍛冶の名高い登録商標でしたし。

>サンカの伝承にあるスサノオの話しでは、砂鉄との関係を感じさせますし、
 スサノウの「スサは鉄」であり、スサノウは砂鉄の神「スクナヒコ」(お子神)や、「葦原醜男命」
(醜男とは何度殺されても蘇させられる頑強な神への尊称。再生できる鉄の性質を示す)、鍛冶神の
「天目一命」、「天御影命」等と同じ神だと言われ、更に曲金の発明者と伝わる「八意思兼命」でもある
という説もあります。加えて「天日槍(槍は鉄、矛と書けば銅)命」には、スサノウと宗像女神のお子神
伝承があって、天日槍命は斉部氏には「海日槍命」と伝わっているので、海人の神です。
 これらの神々には全て朝廷配下の後裔があるわけで、ぐるぐるとみんな繋がってますね。
権力へ、サンカ伝承が取り込まれた結果なのかもしれないとすると、意味の深い存在だなぁと思います。

>サンカの作る箕や籠類が、産鉄の際にとても重要なものであったことも、
>なんらかの関係を想像させますね。
 産鉄の籠やゴザ等を作った藤葛のつく姓、藤原には、葛原の意味もあるそうです。金屋子神の社にも
藤の紋?があるらしい。また持統天皇の藤原宮は、飛鳥にあった藤原宮を移したもので、飛鳥の藤原宮
(藤井ヶ原・藤原氏の本貫地)の地は、藤蔓がまといつく樹木が自生していたそうです。更に橿原市の
藤原宮は「高殿」という地にあり、タタラ場を高殿と言うのも面白いです。寝殿も高殿。不思議ですね。
 また藤や田のつく名前は鍛冶・鋳物師にも多いです。田がつくのは鉱物採掘初期には、田の開発にも
なるからでしょうね(だからスサノウは穀物神等や稲荷信仰へも繋がる)。鋳師で田がつく方々は各地に
分布したそうですが、常陸方面から河内畿内、滋賀や伊勢等の鋳師に入り、移動したようで興味深いです。

>出雲や丹波、また山、川などの共通した場所を持っていますしね。  ほんとにそうですね!
>釣り師、垂涎のブランド『がまかつ』は播磨の会社だったんですね。  そうなんですよ〜(^o^)V

ヤゾ− - 2001/07/30(月) 17:56<

勘は当っていた!?

地元で仲の良い釣り友達の従兄弟に、
地元でも有名な釣りバカにして名人がいるのですが、
その人に初めて会った時に、妙にサンカの匂いみたいなのを感じていました。
所謂、直感というやつです。
でも、地元の釣り友達の家系ではそんなこともないだろうと思っていたのですが、
ついさっき、その従兄弟のAさん(年令は50代半ばくらいです)の親父さんは養子に入った人で、
ウナギ捕りの名人にして竹細工もしていたとの話を聞いて驚きました。
その親父さんは、周りの人には山林土木の仕事に従事して、全国の山を転々をしていたと言っていたそうですが、
それでウナギ捕りが上手であったことは納得はできますが、竹細工となると納得ができません。
な〜んか怪しいです。僕はサンカであったように思います。
残念なことに、そのAさんの親父さんは亡くなっているのですが、
その弟さん(80歳位)が近くの村に暮しており、やはり竹細工をするとのことです。
今度、会いに行ってきます。

そのAさんですが、マンガみたいな人なんです。
地元でも有名な『RX-7 クソまみれ事件』という逸話があります。
20年以上昔の話しのようですが、
Aさんの愛車である初代RX-7で、釣り友達を乗せて朝早くから釣りに走ったそうです。
途中、餌屋で餌を買い、同乗していた人が売っていたコーヒー牛乳を飲んだそうです。
そして再び物凄い勢いで目的の磯を目指して走るのですが、
同乗の人の腹具合が悪くなってきて「すまんけど、ちょっとクソしたいんで止めて」と言ったそうです。
そしたら、Aさんは「あかん、場所なくなるんで、クルマの中でせえ、」と言ったそうです。
一度言い出したらどうもこうもならないことを知る同乗の釣り友達は、
初代RX-7の超狭い後部座席まで移って行き、餌を買った際に貰ったナイロン袋にビチグソをしたのだそうです。
臭いわ、こぼれるわで、あんな情けないことはなかったと、その時に一緒に釣りに行った、今は地元土建屋の親方はこぼすのでした。
ちなみに、その人に最初、山を造成してもらいました。アハハハ。
そうまでして釣りに急ぐほどの人なんです。
また、磯で釣りをしていて何にも釣れない時など、
チョット下見てこよと、パンツ一丁になったかと思うと、海に飛び込んで魚がいるかどうか確かめてくるのだそうです。
野生の人です。また常識を超えた人の良さと、少しヤクザっぽいところもあったりします。

ピンクのトカゲさん、瀬降り物語のパンフレットを持っているなんて羨ましいです。

ピンクのトカゲ - 2001/07/30(月) 09:07<

瀬降り物語

本棚整理してたら瀬降り物語のパンフレットが出てきました。
なんか懐かしい気分です。

やぞー - 2001/07/30(月) 07:50<

はやとちり

さっきメールチェックをしたら・・